【金沢の風景】大学超えて、どこ行くねん。

てか、何になるつもりやねん。

伝統的には、福井を越えて南下して、三高や八高に攻め込んでたのが、他ならぬ四高だったわけですが。

その斜め上を行こうというわけですか。

まあ、とりあえずやってみたらええのではないでしょうか。やりたいなら。

私はとりあえず金沢カレーを食べます。

【ソウルの風景】大韓民国歴史博物館の断片・2017年夏

すでに何度か来ていて、図録も買ったりしているところなのですが。

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見どころとしては、展示物そのものよりもその見せ方や出し方の方が気になりますし、面白いもしれません。

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我を忘れて興奮するほど楽しいわけではありませんが、でもそこそこ楽しいところです。

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山極寿一・京都大学学長のインタビュー

インタビュアーの態度というか聞き方がどうも変な感じで気持ち悪く、そこは気になりますが、内容自体は「さすが山極学長」という内容なので、後々振り返ることができるようにクリップ。

異見交論40「国立大学法人化は失敗だ」山極寿一氏(京都大学学長)

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山極寿一(やまぎわじゅいち) 1952年生まれ。霊長類研究の第一人者で、特にゴリラに詳しい。「ゴリラは語る」「『サル化』する人間社会」など著書多数。元日本霊長類学会会長。2014年に京都大学学長就任(任期6年)。


 国立大学が「民間発想のマネジメント」により「自律した経営」をする「法人」となって、十余年。以来、国から支給される基礎的な運営資金が毎年削減される中、教育や研究に充てる資金を、国立同士、あるいは私立や公立と競い合うようになった。教育や研究はどの大学もが担う使命だ。だとすると、国立大学が「国立」であり続ける意味はどこにあるのか。国立大学協会会長、日本学術会議会長も務める京都大学の山極寿一・学長に聞いた。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈


■ミスマッチのつけ

――安倍首相は2月8日、「大学は知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を高める原動力」と述べた。では、国立大学とは......。

山極 まず、こちらの言いたいことを言わせてほしい。

 国立大学法人化は失敗だった、と思っている。文科省と国立大学が一体となって取り組んできた教育研究の質の向上を切り離し、単なる財政問題として処理した。国の財政が悪化している。その責任を法人化して各大学法人に押しつけたのだ。はっきり「失敗」だと認めてもらわないと、これからの大学改革はできない。

――「法人化が失敗」という言葉が出てくるとは思わなかった。前国大協会長の里見・前東北大学長は「一定の意義があった」と話していた(>>vol.10)。

山極 1991年の大学設置基準大綱化で、東京大学以外は教養部を廃止した。教養部は高校と大学教育を接続する機関だった。それに続けて大学院重点化が行われた。企業サイドの求めに応じて、高度な科学技術、世界の動向に応じた高度な人材育成をすることがミッションとされた。そのかたわら、文部省(当時)は「ポスドク一万人計画」を打ち出した。博士の学位をとっても就職できない事態が起こったからだ。結局、企業の改革には結びつかなかったのだ。そしてグローバル時代を迎え、企業は安い人材、また高度な人材を求めて海外へ出口を求めた。日本の大学との連携は全然、進まなかった。いまだに一括採用が横行し、見ているのは大学入学時の偏差値と大学のブランドだけ。国が大学に求めているものは、前のめり型の国際競争で企業に資する人材育成だ。だから「大学はなっていない」とか「大学の研究力が落ちている」と言っている。研究力といっても、国は論文数しか見ていない。

 法人化以来、運営費交付金※を削減し、一方で競争的資金を打ち立てるから、研究者はその獲得競争に邁進して、実際の研究時間を減らしている。現状では、明らかに研究者の数と研究時間が減っているのに、企業はますます躍起になって「高度人材育成」「社会に役立つ人材」を求める。政府と企業のミスマッチ、企業と大学のミスマッチが起きているのだ。

※運営費交付金

基礎的な運営資金として国から国立大学や国立研究所に支給されている資金。86大学に総額約1兆1000億円。主に教職員の人件費や研究資金に充てられている。

■主な大学改革

《1991年》 大学設置基準の大綱化

《90年代》 国立大学で大学院重点化

「大学院重点化」とは、学部を基礎とした組織から、大学院を基礎とした大学に変更すること。学生・院生数をもとに国から支給される「積算校費」が、院生の方が高いこともあり、最終的には国立16大学で採用した。

《96~2000年度》 ポスドク1万人計画

博士の学位取得者の雇用を促すために、国が期限付きの雇用財源を支給。大学院重点化で増えすぎたドクターの救済策。

《2004年》 国立大学法人

《2012年》 国立大学のミッション再定義(~13年)

大学改革実行プラン発表 

「大学の機能の再構築」と「大学ガバナンス(統治)の充実・強化」を柱とし、具体策として(1)国立大学改革(2)大学入試改革(3)研究力強化――などを挙げた。

《2015年》「新時代を見据えた国立大学改革」発表

《2017年》「指定国立大学」選定

世界のトップレベル大学と競うことのできる国立大学を選び、国が重点的にサポートする制度。京都、東京、東北の3大学が選ばれた。

――その中で、国立大学の「差別化」が進んでいる。

山極 指定国立大学は、文科省が初めて行った差別化だ。でも、国が研究型大学の3大学に何を望んでいるのか、未来の大学構想に結びつけているのか。そうは思えない。要求過多だ。お金はないけれど、要求はする。それでは何もできない。国が出す補助金には常に目的があるから、その目的に応じて、大学の態勢を変えることになるが、それは大学の個性化を摘む一番悪いやり方だ。たとえば外国人教員の数を増やすとか、そういった話だ。

 現場はどんどん疲弊し、いろいろと事件を起こす。研究不正が発覚したりした京都大学が、こういうことを言うのもナンだと思うけれどね。

■国立大学は公共財

――ズバリ、国立大学とは何か。

山極 国立大学は公共財だ。国民の税金で作っていただいたもので、国民の税金で運営させていただいているものだ。だから大学の知は、一私企業に利用されてはいけないものだ。国民全体の資産にならなければいけない。そういう意味で、もっと自由な学生や研究者のモビリティー(流動性)があり、なおかつその成果を誰もが利用できるオープンサイエンス、オープンイノベーションの拠点にならなければと考える。けれども、今のやり方は組織と組織が競争して組織のために尽くし、組織のためにお金を取ってくる人がエライという風潮になりつつある。それは間違いではないか。国立大学でつくられた知的財産は大学同士でお互いに共有し、政府や国民と共有し、その種を芽吹かせていかなくてはだめだと思う。だから、大学同士は戦うのではなく、むしろ連携しなくていけない。研究者同士が大学の枠を超え、企業の枠を超えて連携し、その新しい成果を世に問うべきだ。

――国際的な大学ランキングを重視する政策も横行している。

山極 その結果、一律の指標をもとに財務省から文科省が一生懸命お金を取って、それを実現するという方向になっている。旧ソ連がやっていた計画経済、その失敗例と同じことしているわけだ。こんなことをやって、一体何になるのか。大学は個性を持って、この大学で学べばこういうことができるはずだと学生の意欲や希望を高め、学生と教員が一体となって新しい世界を切りひらく所ではないか。それが崩れたわけだ。どの大学も同じことを目指す。そんなバカげたことがあるか。怒りがこみあげてくる。

――教育の面ではどうか。

山極 今の学生は、育てるのに大変、手間がかかる。だから、教員はそこに充てる時間がものすごく増えている。そもそも教員数が減り、事務職員も削られているから、教育や研究にかける時間が減っていくのは当たり前。教育・研究は公共財だ。教育を受けられる権利は、どの国民も平等に持っている。教育や研究が公共財だとすれば、その成果は自分のために使ってはいけないはずだ。社会のために、国民のために、世界のために使わなくてはいけない。ところが、組織と組織の資金獲得競争になっているから、お金を取れる人がエライ人、みたいなバカなことが起こるわけだ。繰り返しになるけれど。

■競争の果てに

――その結果、研究不正も起きる。

山極 研究成果をあげれば、地位の上昇につながる。自分が大きな外部資金を得ることにもつながる。となれば、いきおい研究不正も増える。

 一方で、所属する組織によって研究者に格差が広がっている。公共財としての大学は、東大であろうと阪大であろうと地方の小さな大学であろうと、研究者が自由に行き来できなければならない。いろんな大学を渡り歩きながら研究者は切磋琢磨するのだ。東大は一番お金をかけている。東大に行けば自分の好きな研究ができるので、競争力が高まる。その一方で、あぶれた人たちは劣悪な研究環境で自分の研究をしなくてはならなくなる。そうした連鎖の下、あぶれた人たち、次世代の人たちはどうするのか。結果として、研究者がどんどん減っていくことになる。

――ご指摘の通りだとは思う。だが、国立大学に反論のチャンスはあったはずだ。

山極 猛烈に言ったよ。

――すでに文科省は国立大学を三つに分ける政策を打ち出している。「地域のニーズにこたえる人材育成・研究」「分野ごとのすぐれた教育研究」「世界トップ大学と伍して卓越した教育研究」の3タイプだ。そこにさらに差別化を推し進める「指定国立大学」が始まった。京都大学はなぜ、手を挙げたのか。

山極 研究型大学として、より良い条件を求めなければならないからだ。我々も最初は指定国立大学のやり方には反対だったから、「こんなものに手を挙げる気はない」と言っていた。それからだんだん歩み寄りを始め、国がやろうとしていることもはっきりした。「国際水準の研究大学にいろんな措置を与えて、後押しをしていきましょう」と。それにひとまず、我々は乗った。いずれ研究大学は広がるだろう、京大がその先陣を切るのだという構えだった。そこまでは問題だと思っていない。

 問題はそこから先だ。国大協会長としていうと、国は三分類をこれまで以上に進めていくだろう。果たして文科省が、独自の企画を立てられるのだろうか。ますます財務省の言う通りになって三つの分類をただ推し進めていくのではないか。そうなっては、取り返しがつかないだろう。

■国立大学の国際化

――未来に向けてどうしたいのか。

山極 国立大学は公共財という考え。これが全てを語っている。日本は初等中等を含め、世界に対して誇れる教育をしてきた。その教育を海外に輸出してはどうか。教育者がアジアにアフリカ、先進国に行く。それは、実際に求められていることだ。事実、京大はエジプト工科大学大学院に教員を送っている。

 政府は、米国や欧州のような国際化しか視野になかった。EUという大きな経済圏の中で学生や教員が自由に動け、高等教育が初めから無償化できている欧州と、日本が同じことをできるわけがない。その結果、国の金を使って留学生や教員を海外から招致するようなことになる。高額の入学金や授業料、寄付金で資産を増やしている米国の研究大学の手法を、日本の国立大学に求めても無理なことは自明だろう。日本には日本のやり方があるのだ。

 国の外交政策として、日本型の教育をたとえばアジアに輸出する。そういった諸国から集中的に留学生を集めて、英語教育と日本語教育を併用させて日本型の教育でアジアを支える人材を育てたらどうだろう。それを担う力を、日本の国立大学は持っている。

――ところで、学部の定員を減らす考えはないか。少なくなった若者を他大学と奪い合っても、進学高校同士の競争を激化させるだけだ。各大学の教育に磨きをかけるためにも、他大学の学生に広く門戸を開いたらどうか。

山極 学部の定数を減らす考えはある。ただ、定数を減らすと、学部の教員の熱意を落とすことにもなる。問題は二つある。まず、学部生の減で学部教育がおろそかになりがちになる。結果、教員数の減にもつながり、質が落ちる。もう一点は、大学院でいきなり特化した教育にすると、ますます高校と大学の接続が難しくなるということだ。今回、入試でミスをして大変申し訳なく、忸怩たる思いがあるが、背景には、高校教育と大学教育をきちんと接続できる教員が、大綱化による教養部廃止以来、少なくなってしまったということがあるのかも知れないと考えている。さらに、京大は研究所が多いから、もとより学部教育に参加していない教員も多くいる。その中で入試業務が負担化している。きちんと時間と労力を割けなくなっているのかも知れない。

 やはり、学部教育をしっかりやることが大事だ。高校教育からきた学生をしっかり育て、日本の公共財として、研究者を、企業人を育てていかないと。研究型大学が研究だけに特化することは、公共財であることに反する。総合大学としての大きなミッションは、幅広い教養と幅広い出口を保証することだろう。

――なるほど、研究型大学のレベルを保ちたいのならば、学部をやめて全国から優秀な学生を集めればいいのではないかと考えていたが、そういう考え方もあるか。最後に問いたい。国立大学の差別化が進み、さらに国立大学の統合※も取りざたされている。どう考えるか。

※国立大学の統合

一法人が複数の国立大学を運営する構想。その形状から「アンブレラ」方式とも呼ばれる。

山極 連携のあり方を模索すべきだろう。地方の国立大学に通っている学生も、東大で授業を受けることができる、そういう循環が必要だ。たとえば、カリフォルニアのコミュニティーカレッジとカリフォルニア州立大学がやっていることは一つのモデルになるだろう。日本は小さな国で、全都道府県に国立大学があるというメリットを生かすことが必要だ。

 特に留学生だ。国立大学協会で留学生の窓口を一本化し、様々な大学に散らばらせることを考えている。国立大学の幅の広さ、個性の豊かさを生かす教育ができる。公立大学とも連携していく。文科省の大きな壁は公立大学総務省所管だから、コントロールが利かない。私立大学はもっと利かない。だから国立大学に集中砲火を浴びせているのだが、国立大学だけが変わっても大学全体が変わるわけではない。

 国立大学で学んでいる学生、研究者は公共財としての自分を意識しなくてはならない。教育も研究も.企業との接点もその点から考えなくてはいけない。それを誘導していくのが政府と文科省文科省はその司令塔なのだから。

――法人化で国立大学がよくなっていない。その根底に、組織と組織の過度な競争がある、という考えはよく分かった。組織同士の戦いは、意味がないのか。動物は群れ同士で戦っているが。

山極 群れの作り方が違う。人間は群れを行ったり来たりできる。それが人間の特徴。一つの群れに所属しているわけではない。複数の組織に属して能力を高めるのが人間の特性だ。それができるような環境作りを実現したい。

http://kyoiku.yomiuri.co.jp/torikumi/jitsuryoku/iken/contents/40-2.php

心が折れた。

途中まで、頑張って迷惑かけてみよう、と心に決めていたのになあ。

余計なもの見て心が折れた。あかんあかん。やっぱりあかん。やめやめ。

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ここのところ、調子的にダメダメなのは自覚あったけど、だいぶあかんな。

とりあえず、次善の策だけは取っておいた。もぉこのままずっと次善でもええわ。

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【南揚州の風景】牡丹公園・2017夏の残り

牡丹公園の訪問記、ちょっとした小ネタが残っているので、それを片付けておきます。

blue-black-osaka.hatenablog.com

これまでは入り口近くの墓域を見るのみだったのですが、今回は少し上まで行ってみることにしました。

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こうした上の方にも烈士のお墓はあるのですが、見るからにしんどそうだったんで、行ってなかったんですよね…。

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で、牡丹公園でおそらくいちばん高いところにあるのが、この追慕館。まあ納骨堂ですね。納骨堂だとすると、なかなか「素敵」な作りの建物です。

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この外観から予想できるかもしれませんが、内部の納骨壇はこんな感じです。

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どう見ても金属製のロッカーです。「1990年代以前の納骨堂」感が溢れ出でています。

空きはあるものの、そこそこ埋まっています。このうち、花輪や写真などで飾られているのはおおむね、2000年代以後に納骨されたところです。

1990年代に納骨された遺骨は、基本的には「葬事等に関する法律」の期限設定の規定を受けないはずです。ただし、ここは私設墓地ですから、「15年」という葬事法に準じた期限を独自規定で設けているようです。なお、再契約は可能ですし、返却を受けて他所に移動させることもできます。

ここはまだ空きがあるので数年前に期限が切れているものが放置されているみたいですが、そうした手続きを遺族がとらない場合には、最終的には無縁遺骨として処理されることになるでしょうね。

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ニーズの高まりに応じて、2000年代以降の葬墓文化の変容に適応したきれいな納骨堂も公営私営問わずにあちこちで見られますし、こうした古い納骨堂が現代的にリノベーションされたりする例もあります。でも、火葬率がまだまだ低かった時代の風情を残すこうしたレトロな納骨堂も、全国探せばまだまだあるような気もします。

悉皆調査は難しいかもしれませんが、自分で行ける範囲で今後もいろいろ見ていくことにします。

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リトルシニア関東連盟の始球式騒動

ネットに動画が出回っていましたから私も見ましたけど、「稲村亜美目線からの光景」を想像すると、これは相当怖かったんではないですか。これだけの集団だと、個々人の力ではコントロールできないですから、身の危険を覚えて当然です。

連盟も謝罪文を出しているみたいですね。まあ当然です。ホント、あれだけの人数の選手をグラウンドに入れたまま、しかも整列してもいない状況で、何であれをさせたんですかねえ。警備員や大人が間に入ってもいなかったですし。

教育云々の問題がないとは言いませんが、それ以前、それ以上にもっと強調すべきところがあるんではないですか?

稲村亜美に球児殺到 連盟が公式HPに謝罪文「事前検討が不十分」「選手に猛省促す」

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昨年3月のオープン戦で始球式を務めた稲村亜美 Photo By スポニチ

 日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟は12日、タレントの稲村亜美(22)が10日に神宮球場で行われた同連盟の開会式に参加して始球式を行い、球児に取り囲まれるハプニングがあった騒動について、公式サイトに謝罪文を掲載した。

 「開幕式の騒動に関するお詫び」と題した謝罪文は以下の通り。

 去る3月10日の開幕式で稲村亜美さんを迎えて行った始球式の投球終了後、選手が稲村亜美さんを取り囲むという出来事が起きました。選手数名がケガをするという事態にもなり、我々役員の事前検討が十分でなく、関係する皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。

 お忙しいところ折角来ていただいた本連盟の卒団生である稲村亜美さんや所属事務所の皆様に多大なご迷惑をおかけし、心よりお詫びを申し上げる次第です。

 選手が整列していた場所を離れ、あのように稲村亜美さん目指して殺到した行為は、決してあってはならないことだと考えています。今回の行為についてその場にいた選手には、チームを通じて猛省を促すとともに、今後このようなことが起きないよう役員一同指導者、選手の教育を続けてまいります。

[ 2018年3月13日 07:35 ]

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/03/13/kiji/20180312s00041000190000c.html

稲村亜美“始球式騒動”を説明「私の下にも下敷きに…」球児が「体に触れることは全くなかった」

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昨年5月の中日―巨人戦で始球式を務めた稲村亜美 Photo By スポニチ

 10日に神宮球場で行われた日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟の開会式に参加して始球式を行い、球児に取り囲まれるハプニングがあったタレントの稲村亜美(22)が13日放送のフジテレビ「めざましテレビ」(月〜金曜前5・25)の電話取材に応じ、当時の状況を説明。SNS上には、稲村に抱きついたなどという球児とみられる投稿があったが、本人は「(球児が自身の)体に触れるということは全くなかった」と否定した。

 「私も倒れてしまって、私の下にも下敷きになっている選手もいたので。私自身は本当にケガもないですし」と無事を強調し「(球児が)近くに来た時に握手してくださいと何人かが言っていて、周りの子たちと握手して、体に触れるということは全くなかったですね」と“触られ疑惑”を否定。「これからも一生懸命、野球をやってもらって、野球界をどんどん盛り上げるために頑張ってほしいなと思いますね」とメッセージを送った。

 稲村は始球式を行った10日夜、自身のインスタグラムを更新。「関東リトルシニア開会式の始球式をさせていただきました!選手の熱気がすごく伝わってきて色々とハプニング?も起きてしまいましたが、みなさんのパワーが伝わってきて、わたし自身は貴重な経験をさせてもらえました。怪我がなければいいことを祈ります。わたしの出身でもあるシニアリーグの始球式をさせてもらうなんて、中学生の頃は夢にも思ってなかったので、不思議な気持ちです!笑。今までお世話になったコーチ監督、保護者の皆さんに改めて感謝です!選手の皆さんの健闘を祈ります!」とつづっていた。

 同連盟は12日、公式サイトに謝罪文を掲載した。

[ 2018年3月13日 08:40 ]

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/03/13/kiji/20180313s00041000107000c.html

今回は災難だったとした言いようがありませんが、今年も一層のご活躍をお祈りいたします。

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【南揚州の風景】牡丹公園・2017夏

ここも何度も通っているポイントです。京春線の磨石駅。初めて来たときの京春線はまだ単線非電化路線で、磨石駅もこんな駅ではありませんでした。ダイヤが不便すぎてバスに太刀打ちできる状況ではなかったのも、今は昔ですね。

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かつての線路跡は、この辺では自転車道兼遊歩道になっています。

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ま、それはともかくとして、牡丹公園です。実際に牡丹の花が咲くのかどうかはぜんぜん知りませんが、要するに私設の公園墓地です。

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この牡丹公園が韓国内でよく知られているとしたら、その理由はおそらく、民族民主烈士墓域が存在するが故のことでしょう。120余名の「烈士」が埋葬されているここは、全国にいくつかある烈士墓域の中でも最大規模のものです。

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なお、記事の掲載順とは前後しますけど、この時にここの案内板の説明を見て、湖南の「光州望月洞墓地(5.18旧墓地)」と並んで、嶺南の「鼎足山墓域」と大邱の「現代公園墓域」の名前が挙げられているのを確認し、それから後二者の墓域を訪れた、という時系列関係になります。

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閑話休題。案内図を見ればわかりますが、集中しているエリアはあっても特定の墓域がそのために区切られているわけではなく、個別のお墓が点在する形になっています。分布・集中の度合いに差はあるものの、その点は光州の5.18旧墓地とは異なり、鼎足山や現代公園とは通じるところです。

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他方で、鼎足山や現代公園とは異なる部分が牡丹公園にあるとすれば、前二者がそれぞれの地域にゆかりのある烈士が眠る場所であるのに対し、ソウル近郊のここが全国的・包括的なセンターの役目を事実上担っているという点が指摘できるでしょう。その意味では、地方にあって1980年代以降の民主化運動の焦点となった光州にある5.18旧墓地とこの牡丹公園とは、そうした運動が背負う死者たちの集まる「二つの中心地」となっていたと言えます。

1987年の6月抗争を民主化運動の「頂点」ととらえるならば、朴鍾哲が牡丹公園に、李韓烈が5.18旧墓地に眠っていることの象徴的意味の大きさは明らかです。さらに言えば、利川の民主化運動記念公園の「格落ち」感の理由の一つには、「彼らがいないこと」があると考えられます。

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光州に眠る李韓烈の後ろには、国立5.18民主墓地の設置にともなって墓域を分けたとはいえ、光州事件の死者たちがいます。釜山出身であるにも関わらず南揚州に眠る朴鍾哲の後ろには、労働運動・民主化運動・統一運動において象徴的存在感を発揮してきた名だたる「烈士」たちがいます。

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「在野」で求心力が維持されたままのこれらの墓域と、(事実上の)国立施設として設置された民主化運動記念公園との間を、どう関係づけていくか。これは、簡単に答えが出せる問題ではないですし、あり得る答えは一つではないと思われます。それは最終的には、政治の仕事となるはずです。

「出世払い」という言葉の現代的語感:日本私立大学団体連合会のある提案

あー、なるほどねえ。私立大学サイドからの提案ですから、その主眼は学生の「負担軽減」よりも国立大学と私立大学との「格差是正」ですね。当然のことです。

でもまあ、「ある立場の利害と都合から一方的になされた試案」という域を出てない、と言わざるを得ないでしょう。現実的な可能性を考えれば、ここまで取り上げるほどのものであるのかは正直ちょっと疑問です。巨額の財政支出を必要とするというのもさることながら、「出世払い」という言葉に逃げ込んでいる点がもう…。

「出世払い」なんて言うのが今日日、どれほど現実味があるのか。自民党教育再生実行本部の提案と重なってる時点でもう見えてるんですけど、「出世しなければ支払いが発生しない」という「合理的」判断を招く可能性を計算に入れてますか…?

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「昭和か!」とツッコみたくなります。

www.youtube.com

大学授業料「出世払い」で 私大団連、全学生を対象に制度提案
2018年3月10日05時00分

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私大団連が提案している拠出金制度

 「高等教育の無償化」が議論されるなか、日本私立大学団体連合会(私大団連)が「出世払い制度」の創設を提案した。高等教育への公的財政支出を増やすとともに、国立大と私立大に通う学生の負担の差の是正を目指す内容。「いま、アピールしなければ機会を逃す」という危機感が背中を押した。(片山健志)

 500以上の大学が加わる私大団連が提案しているのは「高等教育機会均等拠出金制度」。私立大への公財政支出を大幅に増やしたうえで、残る家計負担も在学中に払う部分を圧縮し、8割は卒業後、所得に応じて負担する仕組みだ。

 オーストラリアの高等教育拠出金制度(HECS)を参考にした内容で、諸外国と比べて低い高等教育への公的支出を増やし、家計負担への依存から脱却することが狙いだ。政府が消費税の増税部分を使って進めようとしている高等教育の負担軽減策と異なって低所得世帯だけでなく、全学生を対象としているのも特徴。2月21日には、林芳正文部科学相に手渡した。

 ■公的恩恵13分の1

 提案の背景には、国立大学に通っている学生の方が、公財政支出の恩恵をはるかに多く受けていることもある。私大団連によると、国立大が年間1人あたり202万円なのに対し、私立大は約13分の1の16万円で、その分家計負担が大きくなっている。

 さらに、政府が昨年12月に閣議決定した「政策パッケージ」では非課税世帯の子どもについては国立大の年間授業料(年間約54万円)相当額を免除し、私立大に通う場合は一定の差額を上乗せする方針だ。私大団連は国立大の学生と私立大の学生の家庭負担額の差がいっそう広がって格差が固定されることを懸念し、「国立か私立かではなく、学生一人ひとりの能力と経済状況に応じた支援が必要」と訴えている。

 ■自民党内でも検討

 HECSを参考にした拠出金制度は、自民党教育再生実行本部も昨年11月に提案している。国立と私立の格差是正が目的ではないものの、低所得者だけでなく、すべての学生を対象にしている点や、卒業後の年収に応じて納付する仕組みは私大団連の提案と重なり、本部長の馳浩衆院議員は「国立と私立の間の格差をできるだけ解消する考え方は必要」と語る。文科省村田善則私学部長も「負担差を解消する方向で政策を進める必要がある」と理解を示す。

 ■巨額の財源、壁に

 ただ、私大団連の提案がすぐに実現することは難しそうだ。採用された場合は国立、私立を合わせた公財政支出の総額が現在の年間1兆5431億円から2兆6千億~2兆7千億円台に膨らむと試算され、巨額の財政支出が必要となるためだ。

 私大団連の構成団体の一つ、日本私立大学連盟の担当者は「私立大の現状について、社会の理解を得て、応援してもらわないとらちが明かないところまできた」と明かす。提案はそのため、まず一石を投じた形だ。

 ■公的支出の違いで2パターン想定

 私大団連が提案している拠出金制度は2パターンある。

 A案は、私立大全体で教育や研究に使っているお金の半分を公財政でまかなうと想定した。

 根拠は、私立大学の経費の2分の1以内を「補助できる」としている法律の規定で、可決された1975年の参院文教委員会では「できるだけ速やかに2分の1とするよう努める」と付帯決議された。実際の補助の割合は80年度の約30%がピークで、15年度は10%を割った。長年の要望を当てはめて計算したものだ。

 この場合、家計負担額は1年間で88万円となり、そのうち入学・在学中に支払うのは18万円だ。

 これに対し、B案では国立大生と私立大生の家計負担が同じになることを重視し、国立大生は1人あたりの公財政支出を1年間で160万円、私立大生は半分の80万円と想定した。同時に国立大の運営費交付金を減らし、国立大生1人あたりの家計負担を私立大と同じ97万円まで引き上げた。入学・在学中に払うのはいずれも19万円になる。

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13395654.html

【ソウルの風景】東大門教会跡地・2017年夏

これはコメントするまでもない小ネタとしての後日譚。

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ま、こんな感じやったという次第です。

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