「主張が語る」のか、「存在が語る」のか

先日行った高麗大学校との比較をしたくて、韓国名門私学の双璧たるもう一方のこの大学にも足を運んでみた。

正門を入ってすぐ右手に見えるこの建物に、大学博物館が入っている。

学校史室はおおむねこんな感じだが、その他の民俗学や考古学・地質学・生物学などの展示も含め、この建物(100周年記念館)の建設が1988年であることを反映して、高麗大学校のそれに比べるとやや古びた感が否めない。






そして、「延世大学校民主化」というお題で誰もが頭に浮かぶ이한열(李韓烈)についての展示ももちろんある。博物館のすぐそばには彼の慰霊碑も立っている。


ただ、これもやはり古びた展示全体の中に埋没していて、延世大学校の歴史の中における生命力の強さを感じることはできない。というより、もともとこういう語りに延世大学校はどうも〈向いていない〉ような気もする。
校史展示を比較してみると、高麗大学校は(普成専門学校の昔から)常に何かを主張することによって存在を示しているのに対し、延世大学校は(延禧専門学校にしてもセブランス医学校にしても)それが何かを主張するというわけではない。むしろ、「その存在、それがそこにあること自体が意義なのだ」というスタンスの違いを感じるのである。
今のキャッチフレーズである「Yonsei, the First & the Best」なども、「かくあるべし」といった感じではなく「すでにそこにあるもの」を言葉にしただけ、といった雰囲気を感じるのは、私が下々のものであるが故の僻みであろうか。必ずしもそうとも言い切れないような気もする。
何なんでしょうねえ、このエレガンスさは。
キリスト教的なバックボーンがなせる業かと思えたりもするのだが、考えてみれば日本でも、早慶における慶應義塾、同立における同志社には同じような匂いを感じる。もしかしたら、赤っぽいスクールカラーを採用するともっさく、青っぽいスクールカラーだとお洒落になるのかも知れない。


ちなみに、ついでにこちらの大学の博物館にも行ってみた。


この学校博物館は、内容的にはこんな感じの純粋な博物館であって、校史展示などはない。

ただ、1996年には学校半世紀展を開催したことはあるらしい。残念ながら図録などが売れ残っていたりはしていないようだ。

ソウル大学校の校史展示が常設されていればたいへん興味深いものがあると思うのだが、そこに問題があるとしたらそれはおそらく、この建物が象徴するものではないかと思われる。



「法専」とあるのは「京城法学専門学校」、「城大」とあるのは「京城帝国大学」のことである。こうした歴史とソウル大学校の公式的な歴史との間に〈矛盾〉が存在するのは確かなのだが、そのような軋轢はいずれどうでもよくなっていくのではないか、と個人的には思っている。そこで学び、悩んで、人生の一部をそこに過ごした人たちがいて、後々まで人生を歴史の中に刻み込んだ。
そのこと自体をなかったことにしても仕方がない。また事実、なかったことにはしようがないと考えるからである。