ひび割れる5.18旧墓地

国立5.18民主墓地の中心から正面に向かって左側にある「歴史の門」をくぐり、無人の「歴史空間」を通り抜けると、5.18旧墓地に抜ける道に出る。そこを歩いて行くと目の前に広がるのは広大な墓地公園。5.18旧墓地はその一角、民主墓地から最も近いところにある。






ここは事件直後から犠牲者が運ばれ、埋葬されたところである。長らくタブー視され、祭祀を行なうことすら当局から危険視されていた経緯もあって、様々な人の思いが凝縮した場であると言える。
実際、数年前に初めてここを訪れたときには、ずらりと並んだ墓石を取り囲むように張られた横断幕の数々をはじめ、墓石に巻かれた鉢巻・ガラス箱に収められた遺品などを前に、一瞬足がすくんだものである。常ならぬ気の漂う地。それが5.18旧墓地である。2000年代以降でもそうだったのであるから、1980年代にはどれほどのものであったのか、経験していない者にはなかなか想像がつかない。
またここには、光州事件以降、民主化運動の過程で犠牲になった「烈士」が運ばれ、埋葬されてもいる。その意味でここは、1980年以降の韓国における民主化に費やされた血と死とに対する無言の証言が渦巻く場でもある。


上は1991年に亡くなった明知大学校の姜慶大、下は1987年に亡くなった延世大学校の李韓烈の墓である。
光州事件以外で亡くなったこうした「烈士」がここに葬られた例は他にいくつもあるのだが*1、その嚆矢は1987年の6月抗争を象徴するとも言える李韓烈であったらしい。李韓烈自身は光州出身であったため、彼の埋葬自体はさほど不自然でもないのだが、例えば姜慶大などは光州とは縁のない人物であったにもかかわらず、光州に葬られている。
そうした事実は、20世紀末の韓国民主化と光州との間の関係性を抜きにしては理解できない。そして今も、彼らはこの地に眠っている。
そうした経緯から、現在の国立民主墓地ができた当時には新墓地への移葬をめぐって少なからぬ波紋が生じたとのことである*2。ただ、今となっては、一本の道を挟んで新旧の墓地が接しているという事実そのものにも、積極的な意味を付与することができるのではないか。なにしろ、国立と在野の〈民主墓地〉が相互に開かれて接するという立地は、他では見られないのである。
また、一口に「移葬」といっても完全にこちらを引き払って新墓地に移るというわけでは必ずしもなく、崔美愛・孫玉礼などの墓域は旧墓地でも見ることができる。


そしてこの旧墓地も年々整備が進んでおり、新しい埋葬者も迎え入れられている。


ただ、ここ1、2年の埋葬者が労働運動関係者に限定されていることは、時代との関連で見過ごせない。1980年代から1990年代初頭あたりであるならいざ知らず、2010年も目前の昨今、光州事件とそうした人々との結びつき方は、どうしたって同じではないはずだ。
整備され、新しい死者も迎え入れているからといって、即この旧墓地が生命力を保ち続けているということにはならない。私の目には、この地に乾燥によるひび割れが見えるような気がしてならないのである。

*1:詳細は当地の案内図を見られたい。

*2:早い話、光州事件の犠牲者は新墓地へ移送される資格があるが、その後の民主化運動の犠牲者は新墓地の対象ではない。