渡辺京二の問う近代化の意味

個人的には、渡辺京二の著作群への入口は、『逝きし世の面影』ではないのですが、その時の読書経験は文字通り「強く印象に残りました」。

私が近代やナショナリズムについてもそもそとこだわっているところと、どこか通じあう部分があるのだろう、と勝手に思っています。

神風連とその時代 (MC新書)

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逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

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女子学生、渡辺京二に会いに行く

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「ずしりと胸に響いた」なんていう締め方は、「いかにもな感じで紋切り型だなあ」と思いますけど、「ほんならお前やったらどう書くねん」と問われれば、似たような表現で終わらせてしまうかもしれません。

2013年8月23日
(インタビュー)生きづらい世を生きる 近代化の意味を問う評論家・渡辺京二さん


渡辺京二さん


「江戸時代に生まれ、長唄のお師匠さんの2階に転がり込んで、戯作(げさく)でも書いていたかったねえ」=松本敏之撮影

 幕末維新のころ日本に滞在した外国人の訪日録を集め、近代化以前の社会の実相を明らかにした「逝(ゆ)きし世の面影」が12万部を超すロングセラーになっている。異邦人の目に映ったのは、幸福と満足にあふれる当時の日本人の姿だった。その後、私たちは何を失ったのか。なぜ生きづらい世になったのか。著者の渡辺京二さんに聞いた。

 ――「日本に貧乏人はいるが貧困は存在しない」という外国人の言葉が強く印象に残りました。

 「明治初期に東大に招かれた米国の動物学者モースの言葉ですね。彼の念頭にあったのは、19世紀末の当時、欧米の大都会でみられた労働者の打ちひしがれた表情です。すでに資本主義が始まっていました。貧困によって人間の尊厳まで否定される絶望。『人生の敗者』を思わせる不幸。そういったものが刻み込まれた貧困の表情が日本の貧乏人には見られない、と驚いたのです」

 「江戸には膨大な数の貧乏人がいたんですよ。でも彼らは、それぞれ居場所をもっていた。たとえば、煙管(きせる)にヤニが詰まりますね。それを掃除する仕事が職業になる。それで食べていける。そのかわり粗末な長屋暮らしですよ。家具もほとんどない。しかし、そんな貧乏人が食事になると美しい食器を使う。その美意識にも外国人は驚いたんです。しかも親はしつけで子をたたかない。『子どもの楽園である』と」

 ――日本も日本人も、大きく変わってしまったんですね。

 「維新後に司法省顧問に呼ばれたフランス人のブスケは、日本の労働者はちょっと働いたらすぐタバコ休みにする、これでは近代産業を移植するのは無理だと考えた。当時の日本人はまだ、自分が時間の主人公だったんですよ。地固め工事のヨイトマケをみたモースも、日本の労働者はまず歌い、それから滑車の綱を引くと。なんで労働の手を休めて歌うのか、不思議に思うんです。要するに労働は資本主義の賃労働と違って、遊びと分離されておらず、楽しみが含まれていた。そういう非効率なものを排除していったのが近代化だったわけです」

 ――まるでメルヘンの世界ですが、そんな時代を取り戻そう、という趣旨で本を書かれたのですか。

 「違います。一度失った文明は取り戻せるはずもない。それに、こういう特質は資本主義が始まる前の中世の欧州にもありました。欧米の観察者が日本で見いだしたのは、古き良き欧州も持っていた前近代社会の良さだったのです」

 「私たちは彼らの観察を通して、近代化で失ったものの大きさ、豊かさを初めて実感できます。いま私たちが生きている近代文明の本質も見えてくる。たとえば、いくら江戸時代がいいといっても当時の平均寿命は今の半分以下だったんだぞ、という批判があります。でも、その前提にある『寿命は長ければ長いほどいい』という価値観が、すでに近代の発想なんです。人は時代に考えを左右される。その思考枠に揺さぶりをかけ、いまの社会のありようを相対視したかったのです」

    ■     ■

 ――では現代はどう見えますか。

 「あらゆる意味づけが解体され、人が生きる意味、根拠まで見失って、ニヒリズムに直面しているのではありませんか。だから合理的に働き、合理的に稼ぎ、合理的にモノを買って遊ぶ。グルメや温泉巡り、ゲームがはやるわけです。稼いで遊び、遊ぶために稼ぐ。それが人生だと。それで済む人もいるでしょう。でも人間はいつまでもは満足できない。そのうち空しくなる」

 ――生きづらい世の中になってしまったのは、なぜでしょう。

 「根本には、高度資本主義の止めどもない深化があると思います。基礎的な共同社会を、資本主義は根っこから破壊してしまうんですよ。たとえば江戸の長屋だったら、お隣さんに『悪いわね』といって子を預けて外出できた。ところが今は、お金を払ってベビーシッターを呼ぶ。つまり共同社会では無償で支え合ってきたものを、資本主義社会は商品化してしまうわけです」

 「お金を払えば済むわけですから便利ではあるんですよ。だけど人間はバラバラになってしまう。資本主義は一人一人を徹底的に切り離して消費者にする。その方が人はお金を使いますから。生きる上でのあらゆる必要を商品化し、依存させ、巨大なシステムに成長してきたのです」

 ――でも、私たちはそれによって経済的繁栄を手に入れたはずです。

 「その通りです。何よりも貧しさを克服した。人類は長い間、衣食住の面で基本的な生存を確保できず、初めて手に入れたのが近代ですから。しかし、近代は人間を幸せにすることには失敗しました。人間に敵対的な文明になってしまった」

 「昔は想像もつかなかったほどの生産能力を、私たちはすでに持っているんですよ。高度消費社会を支える科学技術、合理的な社会設計、商品の自由な流通。すべてが実現し、生活水準は十分に上がって、近代はその行程をほぼ歩み終えたと言っていい。まだ経済成長が必要ですか。経済にとらわれていることが、私たちの苦しみの根源なのではありませんか。人は何を求めて生きるのか、何を幸せとして生きる生き物なのか、考え直す時期なのです」

    ■     ■

 ――人が生きていくうえで、大事なことは何だとお考えですか。

 「どんな女に出会ったか、どんな友に出会ったか、どんな仲間とメシを食ってきたか。これが一番です。そこでどんな関係を構築できるか。自分が何を得て、どんな人間になっていけるか。そこに人間の一生の意味、生の実質がある。本来、生きていることが喜びであるべきなのです。日本がGDPで世界2位か20位かは関係ないんです」

 「どんな社会を構築していくべきか。そのヒントが江戸時代にあります。皆が1日5時間働いて、ほどほどの暮らしができないかとか、労働自体の中に楽しみがあり、仲間との絆が生まれる働き方ができないかとか。もちろん直接の応用はできませんよ。経済も社会も大きく変わっていますから。でも、社会に幸福感を広げるにはどこを目指せばいいのか、その手がかりはある」

 ――しかし現実には、低賃金の長時間労働、非正規雇用が増え、独身率も高まって若い人は大変です。

 「就職難で『僕は社会から必要とされていない』と感じる若者がいるらしいねえ。でも、人は社会から認められ、許されて生きるものではない。そもそも社会なんて矛盾だらけで、そんな立派なものじゃない。社会がどうあろうと、自分は生きたいし生きてみせる、という意地を持ってほしいなあ」

 「『自己実現』という言葉に振り回されている気もしますね。それは、ただの出世の話でしょ。社会規範にうまく適合し、基準を上手にマスターし、高度資本主義に認められたステータスに到達したというだけのこと。自分の個性に従って生きれば誰しも自己は実現されるんです。あんなものには惑わされない、しっかりとした倫理観と堅実な生活感覚をもった民衆像が日本にはあるんです。藤沢周平の小説にみられるような豊かな庶民生活の伝統が」

    ■     ■

 ――ご自身はずっと熊本ですか。

 「僕は小学4年から今の高校1年まで旧満州の大連で育ったの。戦後、着の身着のままで熊本に引き揚げてきて、バラックの六畳間に7人暮らし。17歳で共産党に入り、結核にもかかって、まともな就職なんかできなかった。それでも僕は生き延びてみせると思ったし、生き延びてきた。ソ連の戦車がハンガリーの街頭で民衆に砲口を向けた時点で、党とはさっぱりと切れましたが」

 「人は何のために生きるのかと考えると、何か大きな存在、意義あるものにつながりたくなります。ただ、それは下手するとナチズム共産主義のように、ある大義のために人間を犠牲にしてしまう危険がある。人間の命を燃料にして前に進むものはいけません。その失敗は、歴史がすでに証明しています」

 ――若い世代にアドバイスを。

 「人と人の間で何かを作り出すことですよ。自分を超えた国家の力はどうしても働いてくるんだけど、なるべくそれに左右されず、依存もしない。自分がキープできる範囲の世界で、自分の仲間と豊かで楽しい世界を作っていく。みんなで集まって芝居を作ってもいい。ささやかに食っていける会社を10人ぐらいで立ち上げてもいい。僕も熊本でずっと、仲間と文学雑誌をつくっては壊し、つくっては壊ししてきたんです」

 「ただ、基礎的な社会にだけ生きて国家のことは俺は知らないよ、ということはできない。国民国家のなかに僕らは仮住まいしていて、大家には義理がありますから。だけど、それはあくまでも義理。義理は果たさねばならないが、本心は別のところに置いておきたいものです」

    *

 わたなべきょうじ 30年生まれ。日本近代史家。著書に「北一輝」「評伝 宮崎滔天」「近代をどう超えるか」など。10年に「黒船前夜」で大佛次郎賞受賞。

 <取材を終えて>

 現代では、もはや時間の主人公は自分ではない。心の垣根もすっかり高くなった。江戸のような民衆の自立した世界は影をひそめ、自分が生きる根拠を国家に直結させてしまう人もいる。「自分の古里、共同社会に軸足を置いて生きていきたい」。長く熊本の野にあって、地道な文学活動を続けてきた人の言葉が、ずしりと胸に響いた。(萩一晶)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201308220447.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201308220447

つまり、とにかく、生き延びていかなければ、なりませんね。