【上海の風景】提籃橋界隈を歩く・その2:上海ユダヤ難民記念館

前回書いたように、提籃橋の界隈が「歴史文化風貌区」に指定されているのは、一つには提籃橋監獄、二つには下海廟の存在が挙げられますが、より有名な歴史的事実として、ここにユダヤ難民収容所があり、ユダヤ難民隔離区に指定されていたエリアであったことがあります。


下海廟(かかいびょう)

清の乾隆(1736-1795)年間に、近在の漁民たちが海の平安を祈って建立。当時付近を流れていた水路の下海浦の名による。一名、「夏海廟」とも。のちに臨済宗比丘尼道場となり、清末には多くの参拝者を迎える。1937年戦火で全焼、1941年に再建。50年代以降、病院や工場となっていたが、1991年春節に宗教活動を再開。拝観料5元。昆明路73号。

http://historicalmap2010shanghai.com/%E4%B8%8B%E6%B5%B7%E5%BB%9F

もともと上海租界には、サッスーン家のような富豪も含むユダヤ人コミュニティもあったといいます。それに加えて上海は、1938年末頃から、迫害されて祖国を追われたユダヤ人難民の重要な受け入れ先となっていました。というのも当時の上海は、ヴィザを持たないユダヤ難民でも受け入れたからでした。

そのあたりの経緯については、中公新書の『上海』第5章に記述があります。

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

そしてこの時に受け入れられたユダヤ人難民のうち、外灘周辺の共同租界中心区域やフランス租界に居を構えるだけの経済的余裕のない人々が、日本人も多く暮らしていた虹口の東、提籃橋に開設された収容所とその周辺に暮らすことになりました。租界の中心から外れていたこの一帯は、「リトルウィーン」とも称されました。


当時のユダヤ難民の提籃橋界隈での暮らしぶりを偲ぶことのできる施設として提籃橋にあるのが、「上海ユダヤ難民記念館」です。

上海犹太难民纪念馆




摩西会堂 Ohel Moishe Synagogue/上海ユダヤ難民紀念館

上海のロシア系ユダヤ人は1902年に教会を組織、会堂をたてるが、手狭となり1927年ここに新会堂を建てて移転。第二次大戦期には、ドイツ系ユダヤ難民の会合に使われる。2007年には復原修復を経て、新たに紀念館が開設され、海外からも多くの来訪者を迎えている。上海市優秀歴史建築。長陽路62号。

http://historicalmap2010shanghai.com/%E6%91%A9%E8%A5%BF%E4%BC%9A%E5%A0%82

復元修復を経たという建物は、1階に当時の教会堂が再現され、2階もおそらく当時の雰囲気を復元した空間、3階にホロコースト関連を中心にしたパネル展示がされています*1

ちなみに、ここには写っていませんが、一日に何回か、観覧客に向けた説明ツアーをやっています。私もちょうど居合わせたのですが、学生と思しきボランティアが英語と中国語でこの建物の由来や上海でのユダヤ人の生活などについて説明するものでした*2





建物を出て裏に回るとこんな感じです。

こちら側はちょっとした広場になっていて、その周囲には当時のカフェを再現した施設や展示館別館のようなものが並んでいます。

カフェの看板は、実際に残っていたのをここに移したものです。残念ながら訪問時には営業していませんでした。



先ほどの建物の3階にあった展示はヨーロッパでのユダヤ人迫害についての一般的な内容でしたが、こちらは「上海のユダヤ人」といったテーマで展示がされています。





当時のリトルウィーンの雰囲気や賑わいがそのまま残されているとは言い難いのですが、それを偲ぶ手がかりくらいにはなるだけのものが、ここやこの周辺にはまだいくらか残されています。



舟山路 - 上海ナビ

補足としては、こちらのブログなどが参考になります。

「上海ユダヤ難民記念館」 - ららぴっとのブログ:中国江蘇省南通市の生活

*1:内部は土足厳禁で、靴にビニールカバーをかけて上がることになります。

*2:私にも声をかけていただきましたが、時間がなかったので一行より少し先に駆け足で回らせてもらいました。私が日本人だと聞いて、日本語で解説できないことを申し訳なさそうにしていて、こちらがかえって恐縮したことが印象に残っています。誠実そうな若い女性でした。