この世を去った李香蘭

ふとしたことからここしばらく、近代の上海の話に関心を持つようになった私ですから、李香蘭に関心を抱くようになったのも最近のことです。歴史に翻弄された94年の生涯を、晩年どのように思い返していたのでしょうか。

李香蘭 私の半生

李香蘭 私の半生

李香蘭(山口淑子)全曲集

李香蘭(山口淑子)全曲集

山口淑子さん、「数奇」な生涯 激動の歴史、鮮明に語る:朝日新聞デジタル

【社会】二つの祖国 将来案じ 山口淑子さん死去
2014年9月15日 朝刊


本紙のインタビューに答える山口淑子さん=2005年8月、東京都千代田区で

 祖国の日本と、生まれ育った中国。日中のはざまで翻弄(ほんろう)されながら、激動の時代を駆け抜けた山口淑子(よしこ)さんが、九十四年の生涯を閉じた。女優「李香蘭(りこうらん)」として、数奇な運命をたどった過酷な体験から、心の中にはいつも戦争への憎しみがあった。

 首に巻いたカラフルなスカーフが印象に残る。年を重ねるにつれ、「大和なでしこ」として身だしなみに気を使っていた。

 旧満州中国東北部)で中国語を教えていた父に連れられ、三歳から北京語を学ぶ。「子どものころから日中のレールの枕木の一本になり、親善に役立ちたいと思っていました」。一九九二年九月に本紙が取材した際、日中両国への思いがひしひしと伝わってきた。

 「中国は私のふるさと」と断言する山口さん。北京の女学校時代、抗日集会で「日本軍が迫ってきたらどうするか」と決意表明を迫られた時、「北京の城壁の上に立つ」と答えた。日中双方を愛するので、どちらの側にも立てない。むしろ両軍の弾に当たって死んだほうがいいと思い詰めた末に発した言葉だった。

 日本の土を初めて踏んだのは三九年、十八歳になっていた。客船で山口県下関市に到着し、入管でパスポートを見た職員から「支那語(中国語)をしゃべって恥ずかしくないのか」と怒鳴られ、大きなショックを受ける。「なぜ差別をするのだろう。日本人は度量が狭いのかも」。山口さんにとって、生涯忘れることのできない事件だった。

 完璧な北京語と美貌は李香蘭という銀幕の大スターを誕生させ、最後は漢奸(かんかん)(売国奴)のレッテルを貼られる。日本語が上手な中国人女優。一般庶民は山口さんの映画を鑑賞し、「蘇州夜曲」「夜来香(イエライシャン)」の名曲を聴いても中国人としか思えなかった。

 敗戦。李香蘭、川島芳子(男装の麗人)、東京ローズは旧日本軍に協力した「三大文化漢奸」とされたが、山口さんは間一髪で一命を取り留めた。戦後も女優、司会者、参院議員として華やかな舞台に立ち続けた。

 戦後六十年の二〇〇五年の夏。首相の靖国神社参拝をめぐる議論について本紙が取材した際、山口さんは「自国の加害行為に目をつぶり、独り善がりの美しい歴史につくり変えてはいけない」と穏やかに訴えた。

 靖国神社はホームページで、一八九四(明治二十七)年の日清戦争から日中戦争、太平洋戦争までの戦争を「皮膚の色とは関係ない自由で平等な社会を実現するため、避けられなかった戦い」などと説明していた。

 これに対し、山口さんは「『アジアを解放するための戦争だった』というのは後から付けた理屈だった。日本には当時、アジア蔑視の考え方があったのに、『アジア解放』と言っても理解されない」と話していた。

 中国との感情的な衝突が続く中、最期まで「二つの祖国」の将来を案じていた。

(中国総局・白石徹、社会部・西田義洋)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014091502000129.html

山口淑子さん死去:「祖国」と「母国」、激動の人生 日中友好に尽力
毎日新聞 2014年09月15日 東京朝刊


李香蘭時代の山口淑子さん=1939年10月撮影


大陸行進曲発表会で歌う李香蘭=1938年11月撮影

 戦時中は日本人に愛される中国人を演じる旧満州国スター、李香蘭。戦後は参院議員などとして両国の友好に尽力。日本を「祖国」、中国を「母国」と呼んだ山口淑子(本名・大鷹淑子)さんは、両国のはざまで激動の人生を歩んだ。

 山口さんが李香蘭として生きた時代は「満州国」の興亡と重なる。日中戦争突入後、1938年に映画デビュー。翌年から公開された大陸3部作と呼ばれる映画がヒットした。

 一方で、日中戦争は解決のめどがたたず泥沼化。3部作の第2弾「支那の夜」には、当時の日本のあせりとおごりを象徴するメッセージがこめられている。李香蘭演じる中国人少女が日本人船員(長谷川一夫)に平手打ちされ、愛に目覚めるシーン。観衆は船員を日本、少女を中国に置き換えて見入った。日本人は、か弱い女・中国が、強い男・日本を慕い、なびく幻想を抱いた。中国人は暴力によって祖国が服従させられる屈辱と受け止めた。

 敗戦で一転、山口さんは中国軍事法廷で厳しく追及された。主な理由は「支那の夜」への出演。日本国籍が証明され、死刑を免れた山口さんは、晩年「なんて愚かだったのか。どうしてこういうフィルムに喜んで出ていたんだろう」と悔いた。

 戦後は芸能界に復帰するとともに、参院議員として、日中友好を中心としたアジア外交に取り組んだ。

 ◇中国でも哀悼

 山口さんの訃報を受け、山口さんを直接知る中国の関係者らが14日、哀悼の意を示した。中国では「80代以下の人はほとんど知らない」(北京の80代の共産党関係者)のが実情だが、一部メディアは、山口さんが2005年、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝を批判する文章を公表したことなどを伝えた。

 北京在住の中国外務省元幹部は、山口さんが環境政務次官に着任した際に顔を合わせた。「かつて長く住んだ中国をよく知り、非常に友好的だった」と振り返る。

 また、生前親交のあった日中関係筋は「戦前の女優活動は、もし中国人なら死刑だったと思うが、日本人と証明できて帰国した。波乱の人生を経験し『余生は日中友好にささげる』とよく口にしていた」と話した。

 山口さんの代表曲「蘇州夜曲」「何日君再来(いつの日君帰る)」は、今も中国で歌い継がれている。だが、一部の曲について「日本の侵略戦争を思い起こさせる」と受け止める中国人もいる。【北京・工藤哲】

http://mainichi.jp/shimen/news/20140915ddm041200185000c.html

中国でも、メディアの報道はいろいろあるようです。その名に関心のある人は、これらのニュースを読んで知っているはずです。

《夜来香》原唱李香兰去世 曾为“东亚第一影星”
2014年09月15日 16:30 来源:成都商报

《夜来香》原唱李香兰94岁高龄去世

  据新华网报道,上世纪三、四十年代著名艺人李香兰(本名:山口淑子),已于本月7日上午10时42分逝世,终年94岁。

  你听过张学友的歌曲《李香兰》,或许并不知道她是谁;银幕荧屏上曾有过多个李香兰的形象,以至于人们常常忘记了她在离开上海滩后还活了那么久。她是张爱玲眼中的“精灵”,歌曲《夜来香》的原唱者,一位极其传奇的女子。

  艺/术/成/就

  一曲《海燕

  难度高到鲜有人翻唱

  在旧上海的诸多女声中,李香兰是最为传奇的一个,也是声音最为动听的一个。无论是民歌小调,还是流行歌曲,她都能轻松驾驭。而《海燕》,则是一首在当时少见的艺术歌曲,绝对是李香兰唱过的所有歌曲中,难度最高的一首,大段的花腔荽技把她的歌喉展现到了极致。与此同时这曲《海燕》,也是我们所能听到的最早的含有传统花腔女高音荽技成分的中文歌。也许正是因为这首歌演唱难度太高,至今乐坛都很少有人翻唱。据《南方都市报》
  山口淑子,中文名字为李香兰,是一位有着传奇经历的女子,记者久闻其名:中国人收养的日本少女,上世纪40年代以一曲《夜来香》红遍中国大江南北,成为“东亚第一影星”。数年前记者曾在日本国会附近的记者俱乐部采访过这位传奇女性。采访中,尽管距1946年离开中国已有半个多世纪,但她仍“乡音未改”,不时冒出几句标准的北京话。

  她是李香兰

  青春岁月风光却苦恼

  “在那个战争年代,为了生存,我的确是拼足了力气学唱歌

  往事不堪回首,回忆需要勇气。山口淑子说,她在执笔《李香兰——我的半生》时,不得不翻看战前由她主演的影片,有时陷入“自我厌恶”,感到悔恨。她想与“李香兰”告别,却又无法割舍。山口淑子的“李香兰时代”,正值日本侵华时期,《李香兰》的作者之一藤原作弥说,“她在祖国日本和故国中国之间的夹缝中受到命运捉弄,度过了非常苦恼的青春岁月。”

  山口淑子1920年生在日本一个汉学世家,父亲早年到中国学习,后任职于“满铁”公司。13岁时,山口淑子认了父亲的中国同学、当时的亲日派沈阳银行总裁李际春为养父,她也因此有了一个好听的名字——李香兰。14岁时,李香兰前往北京读书。1937年,由“满铁”公司出资的电影公司“满映”成立,李香兰被聘为专职演员。她主演的第一部电影《蜜月快车》奠定了她“懂日语的中国少女影星”的地位,后又演出了《支那之夜》《热砂的誓言》和《白兰之歌》等。1943年,因参演《万世流芳》,李香兰这个名字曾轰动一时。

  追忆往事,山口淑子说:“在那个战争年代,为了生存,我的确是拼足了力气学唱歌”。她称,对那些曾为军国主义服务、歧视中国人的电影而感到内疚。因受不了“李香兰”身份的重压,她在1944年从“满映”辞职,客居上海。1945年日本战败,李香兰被军事法庭以“汉奸罪”嫌疑审讯,后因公布了自己的日本人身份得以幸免。对自己以中国人的名义演出的《支那之夜》等电影,她说“虽因年轻但考虑愚昧”而表示道歉。1946年2月,她被释放回国。

  她是山口淑子、大鹰淑子

  当演员记者参议员皆成功

  “中国是养育我的母亲之国,日本是我的父亲之国”

  告别了“李香兰”的山口淑子,回国后继续电影生涯。1958年,山口淑子与外交官大鹰弘坠入爱河,婚后改姓大鹰,并退出演艺界。1969年,大鹰淑子当起了富士电视台的节目主持人,还前往越南、柬埔寨、中东等战争前线,采访过阿拉法特、曼紱拉等风云人物。1974年,大鹰淑子在田中角荣首相的劝说下竞选,从此当了18年的参议院议员。1975年,大鹰淑子访问平壤,路经北京时,受到廖承志的盛情款待。1978年,她再次访问了留下过青春足迹的北京、上海、哈尔滨和长春等地。同年8月,她含着泪水看了中日缔结和平友好条约的实况转播。

  谈及这段经历时,大鹰淑子打开了画册,让记者看邓小平1978年访日时与她在田中角荣家中的合影。她还回忆起1978年作为日本环境访华团团长访问的情景:“我有中国和日本两个亲人,中国是养育我的母亲之国,日本是我的父亲之国。”

  1992年,大鹰淑子从参议院退休,2001年丈夫去世后,她选择独居,其间仍担任着“亚洲女性基金”的副理事长,她希望以此促成日本政府向战争受害者、当年的从军“慰安妇”道歉赔偿。谈及接受专访的初衷时,她表示希望中国年轻人了解她的命运,借此促进日中两国关系发展。“周恩来总理说过要以史为
,面向未来。日本人应用自己的良知清算过去,两国年轻人更应用全新的广阔视野,考虑将来如何友好相处。”

  另外,2005年大鹰淑子发表长文,劝诫小泉纯一郎不要参拜靖国神社,原因是“那会深深伤害中国人的心。”综合《环球时报》

  《夜来香》

  那南风吹来清凉,那夜莺啼声细唱,

  月下的花儿都入梦,只有那夜来香,吐露着芬芳,

  我爱这夜色茫茫,也爱这夜莺歌唱,

  更爱那花一般的梦,拥抱着夜来香,吻着夜来香,

  夜来香,我为你歌唱,夜来香,我为你思量,

  啊……我为你歌唱,我为你思量,

  夜来香,夜来香,夜来香。

【编辑:唐云云】

http://www.chinanews.com/cul/2014/09-15/6592738.shtml

必要もあって何曲かネットで聴きましたけど、個人的にはやはり「夜来香」がいちばん好きです。