読売新聞の「KANO」評

日本での封切り1週間にして、読売新聞でもネット上に映画評が出ました。

KANO〜1931海の向こうの甲子園〜」(台湾)
2015年01月30日 08時00分

 心も目頭も熱くなる闘いの物語。

 日本統治下の台湾から甲子園へ。1931年に初出場を果たした、日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民による三民族混成チーム「嘉義かぎ農林学校野球部(KANO)」=写真=の物語を、実話に基づいて描く台湾映画。

 KANOは28年に誕生し、翌29年から近藤兵太郎監督(永瀬正敏)の指導のもと、甲子園を目指すようになる。一度も勝ったことのない弱小野球部。台湾代表になれると思う人はほとんどいない。そもそも、混成チーム自体が異色だった。が、監督は、部員の可能性を信じ、その体、技、心を鍛え、ついには、甲子園の土を踏ませる。当初は誰もKANOに注目していなかったが、異なる民族が同じ目的に向かって勝ち上がっていく姿に観衆は心動かされ、やがて魅了されていく。

 KANOの部員はみな、可能性を押し広げようと限界に挑戦する。自分と闘う。自らもそれを実践する監督と共に。監督からチームへ、さらには甲子園に集まった観衆や他チームの選手へと伝播でんぱしていくのは、熱い熱い思い。この映画は、その熱を可視化する。とりわけ、試合場面はダイナミック。投手で主将の呉明捷ごめいしょう役のツァオ・ヨウニンは野球の名門大学の選手。彼をはじめ、部員を演じる役者の大半は野球経験の持ち主。全身全霊で投げ、打ち、走り、守る。躍動する体のまっすぐな迫力、美しさに心奪われずにいられない。永瀬が演じる近藤監督の父親のような存在感にも。

 大沢たかお演じる日本人の水利技術者、八田與一よいちの登場場面も効果的だ。さまざまな苦難を越え、土地を豊かに潤す灌漑かんがい事業に打ち込んだ八田の熱もまた、民族や立場の違いを超えて、球児らに伝わっていくのだ。

 映し出されるのは、まるで、人生の夏のような時間。そして、KANOは実りの時へ。その後、周囲の世界は容赦なく変わっていっても、熱い感触は残る。それに触れた誰かの心に。

 監督は、本作が劇場用初長編のマー・ジーシアン、製作・脚本は、日本統治時代をめぐる「海角七号/君想う、国境の南」「セデック・バレ」の監督で、台湾映画再興のけん引役の一人、ウェイ・ダーション。往時の町並みや甲子園の大規模なセットにも、作り手の勢いが見て取れる。時代背景をふまえ、ほぼ全編日本語。昨年公開された台湾では大ヒットを記録したという。3時間5分。新宿バルト9など。(恩田泰子)

2015年01月30日 08時00分

http://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/creview/20150123-OYT8T50087.html

「KANO」の提供元である朝日新聞とはライバル関係にある読売新聞ですけど、昨年8月には甲子園を訪れる台湾観光客が急増した「KANO現象」を取り上げていますし、先週23日には永瀬正敏のインタビューを掲載してもいます。決して無関心だったわけではありません。

台湾映画「KANO」と甲子園

KANO〜1931海の向こうの甲子園〜」主演・永瀬正敏
2015年01月23日 08時00分
民族、文化の違い超え


さまざまな作品に挑戦し続ける。「基本は欲張りっていうのがあるかもしれない。いろんな役をやってみたい、いろんな映画に出てみたいという欲があります」=池谷美帆撮影

 日本統治時代に台湾代表として甲子園に出場した、三民族混成野球部の物語を実話に基づいて描く台湾映画「KAカNOノ〜1931海の向こうの甲子園〜」(マー・ジーシアン監督)が24日、公開される。

 監督役で主演した永瀬正敏は、自らにとって「特別な作品になりました」と話す。

 昨年、先に公開された台湾で大ヒットした作品。描かれるのは、日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民による嘉義農林かぎのうりん学校野球部(KANO)が、当初は夢のように思えた甲子園出場を1931年に初めて果たすまで。永瀬は、1929年からKANOを指導した近藤兵太郎監督を演じ、日本人俳優として初めて、中国語圏最大の映画賞、台湾・金馬奨主演男優賞候補となった。

 撮影は2012年11月から、翌13年3月末まで。その間に、俳優デビュー30年の節目を迎えたことが、この作品を「特別」にした一番の理由だが、それだけではない。「過去にもやったことはあるのですが、改めてまた台湾のみなさんと、民族を超えて作品を作りあげることができたことも大きい」

 それは「KANO」への出演を決めた理由とも重なる。「それまで台湾代表として甲子園にやってきたのは、ほぼ、現地在住の日本人チームだったらしいんです。近藤監督が初めて、人種を超えてチームを作って、みんなで同じ夢に向かっていった。こういう素晴らしい先輩方がいらっしゃったことも知ってほしい。そこが一番だった」

 昨年11月下旬に行われた金馬奨授賞式では、作品賞候補でもあった「KANO」を紹介するため壇上に立ち、会場の映画人たちから大きな拍手を浴びた。「文化が違っても、同じ映画界にいる人間として、一つの映画に出た役者をちゃんと認めていただいたことが、僕としてはうれしかった」


選手を演じた若者の大半が、5年以上の野球経験を持つが演技経験はなかった

 近藤監督を演じるにあたっては、実際に指導を受けた元野球部員たちからの手紙を通じてつかんだものが大きかったという。「ただのスパルタではなく、練習方法や試合戦略をしっかり理論立てて考えていらした。そして、選手一人一人を自分の子どものように、厳しく、でも、ずっと見ていらっしゃったんだろうなって」

 自身については、今、「やっと、本物の役者というものにちょっと近づいたかなって感じがしている」と話す。「若いころは自分のお芝居だけで精いっぱいでしたが、やっと、肩の力を抜いて映画全体を見られるようになってきた」

 例えば、若い共演者が思うような芝居ができず、悔しそうにしている時。わかる、そうだよなあ、と思いやるようになったという。監督役を演じるには最良のタイミングだったのかもしれない。

 「でも、やっとです、やっと。これから、もうちょっといろんなことやりたいですね」

(恩田泰子)

2015年01月23日 08時00分

http://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/cnews/20150109-OYT8T50060.html

ともあれ、今後の「KANO現象」は、今までの「台湾から甲子園へ」に加えて、「日本から嘉義へ」という人の流れも生み出すかもしれませんね。