鳥取駅から南東に5キロほど離れたところにある宮ノ下小学校の近くに、鳥取陸軍墓地があります。
なお、先達の訪問記はこちらにあります。
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県道から小学校前の脇道を入っていった奥、どん詰まりの無量光寺の右手前です。お寺の駐車場も利用できますので、クルマで入っていって大丈夫です。
途中、忠魂碑が右手に見えてきますが、陸軍墓地はここよりももっと奥にあります。
無量光寺が見えてくるあたりで右手に陸軍墓地への参道が見えるのですが、現在は途中で階段が崩れており、そのまままっすぐ上がることができません。お寺の駐車場まで上がってしまえば、そこから崩落部分を避けて墓地に向かうことができます。
さて、墓地に向かうとしましょう。入り口に立つ一対の灯篭には、「昭和9年7月 大日本国防婦人会鳥取本部」と刻まれています。
高台に開けた墓地は、奥行きもさることながら左右に長く平らな土地が広がっています。
奥にある戦没者慰霊塔は、納骨堂を兼ねるもので、その背後には階級別の合葬墓碑が4基並んでいます。合葬墓は戦後、昭和28年の建立であり、合葬墓碑のほうは日露戦争を受けて明治39年に建立されたものです。
これらの墓碑に向かうためのコンクリート製の参道は、途中で十字に分かれていますが、それは左右に個人墓碑が立ち並んでいるが故のことです。大多数は右手に集まっており、その手前の個人墓碑配置図にはこの墓地に葬られている各人の階級と個人名が記されています。
階級別に大きさを違えた個人墓碑を見ていくと、明治のものと昭和のものとが混在しています。鳥取の歩兵第40連隊が従軍した日露戦争と満州事変の戦没者であると思われます。
また、反対側の左手奥の草叢にも、先ほどの配置図の通り8基ばかりの墓碑が並んでいるのですが、こちらはいずれも日露戦争の戦没者であるようです。どうしてこんな風に別れているのか、正確な理由はわかりませんが、先ほどの墓域の日露戦争の戦没者は将校クラスであり、こちらの墓域の戦没者は小さな墓碑の一等卒・二等卒ばかりであることから、日露戦争後の段階では階級別に墓域を左右に分けていたと考えられます*1。その後、満州事変の際には、より開けて空間的に環境のいい将校墓域側に、墓域を設けることにしたのでしょう。
歩兵第40連隊は、満州事変以降、日中戦争で中国大陸を転戦し、アジア太平洋戦争ではサイパンで玉砕も経験していますが、それらの戦死者には個人墓がありません。全員が先の戦没者慰霊塔に祀られているということになります。
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