【湯梨浜の風景】「満蒙開拓青少年義勇軍 拓魂の碑」

鳥取市から西へ西へと移動して、たどり着いたのが東郷池のほとりの湯梨浜町。その藤津という場所に、鳥取県出身の満蒙開拓青少年義勇軍のための慰霊碑である「拓魂の碑」があります。

満蒙開拓青少年義勇軍 恩人の娘と70年ぶり再会
毎日新聞2016年4月4日 08時50分(最終更新 4月4日 08時50分)

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慰霊碑に手を合わせる柳瀬文恵さん(左から3人目)と谷口和夫さん(同5人目)=鳥取県湯梨浜町で2016年4月3日午前11時37分、李英浩撮影

 満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍として旧満州(現中国東北部)に渡った2人と、引き揚げ時に銃撃され死亡した満州国行政幹部の娘3人が、70年ぶりに再会した。幹部は、ソ連軍侵攻に玉砕を決意した義勇軍を諭し、生還を期すよう強く促したという。幼かった3姉妹に、おぼろげだった父の記憶。「姿が鮮明に浮かんできた」と娘たちは涙を流した。

 義勇軍の一員だった谷口和夫さん(89)=鳥取県北栄町、小原惇(こはらつとむ)さん(89)=同県大山町=と、柳瀬(やなせ)文恵さん(76)=広島県呉市=ら3姉妹は2、3の両日、鳥取県内で会った。

 谷口さんは1944年、ソ連国境に近い竜江省(現在の黒竜江省北西部)景星県に入植した。だが、冬になれば凍りつく大地はくわをもはじき、暖かいうちに収穫したわずかな米を分け合った。柳瀬さんの父の正観(まさみ)さんは副県長で、幼い娘たちを育てながら、時折家に若者を招いて食糧を分け与えた。

 終戦直後、景星県にもソ連軍が進軍した。玉砕覚悟で現地の城にこもる準備を進めていた義勇軍を、正観さんは一喝する。「君たち若い者が死んだら誰が女性や子供を守るんだ」。入植者約320人について、北東の都市チチハルに避難すると決めた。

 だが正観さんは間もなく、現地の住民が撃ったとみられる銃弾に倒れる。享年42。一方、谷口さんらは、3姉妹を含む女性や子供を護衛しながら約1週間かけチチハルへたどり着き、約1年後に船2隻で帰国した。

 谷口さんは古里の下北条村(現北栄町)に戻り、村役場に勤めた。旧満州の仲間との音信は途切れがちだったが、恩人の正観さんを思うとき、帰国したはずの3姉妹の安否が気がかりだった。

 その空白を、父の手紙などを基にまとめた3姉妹の回想録が埋める。昨年寄贈を受けた長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」は、谷口さんら義勇軍鳥取県出身者による記録集も3年前に受け取っており、両方に正観さんの名があるのに気づいた。職員の三沢亜紀さん(49)が「義勇軍の人たちが生きていることを知ってほしい」と橋渡しした。

 鳥取県倉吉市内のホテルを2日訪ねた柳瀬さん、大塚宜子(よしこ)さん(77)、諸岡紘子さん(74)の3姉妹を、谷口さんは「あの時の幼い子が生きてたなんて」と出迎え、小原さんとともに正観さんの人柄や避難時の様子を語った。「今まで父が玉砕を主張したと思っていた」と話す柳瀬さんの目には、涙が浮かんでいた。「義勇軍の皆さんのお陰で生き延びることができました」。3日には5人そろって同県湯梨浜町で営まれた入植者の慰霊祭に参列し、静かに手を合わせた。【李英浩】

【ことば】満蒙開拓青少年義勇軍

 日本国内の15〜19歳(数え年)の少年を開拓民として旧満州へ移住させた制度。日中戦争への動員などで成人の旧満州への移住が困難になったことから1938年に始まった。少年らの軍国意識を高揚させるため義勇軍と名付けられ、45年までに8万6000人以上が海を渡った。

http://mainichi.jp/articles/20160404/k00/00m/040/147000c

予備知識がないと、この碑の場所は少しわかりにくいです。私は、あやめ池スポーツセンターのお姉さんにだいたいの場所を聞いて、それをヒントにしてようやく見つけました。

大きく言えば、あやめ池スポーツセンターと倭文神社との間、東郷池を望む道路沿いの高台にあります。

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なんでそんなにわかりにくいかと言えば、道路からは少し高いところにある上に、その真下で道路工事がされていて余計に見えにくくなっていたからです。

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さらに言えば、本来は大きな目印になっていたはずの「ウェル鳥取ふじつ荘」が、完全に廃墟と化していて、まさかそれに隣接した場所にあるとは思いもよらなかったせいでもあります。今でこそ人目につかなくなってしまっていますけど、碑が建てられた当時は、人目につくよい場所だったはずなのです。

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Wikipediaによれば、2004年に廃止されたようですね。10年以上もこのままなんかいな…。

厚生年金老人ホーム - Wikipedia
blog.kurayo.com

ともあれ、おそらく営業当時は利用者が玄関から目にすることもあったであろう場所に、その碑は立っています。

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この碑の建立と併せて、周辺には桜並木が作られたようです。スポーツセンターのお姉さんも、藤津の方ではなかったのですが、碑の周りの桜並木はよく知られていると教えてくれました。

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で、肝心の碑ですが、かなり大きくて立派なものです。

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脇には、「拓魂の碑」の由来を刻んだ石碑もあります。

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併設のはずだった厚生年金福祉施設は解体すらできずに廃墟になって無残な姿を晒していますけど、今も慰霊祭が営まれているこの碑の周辺の環境は、きちんと保たれていました。