朴正煕を記念する事業/民主化運動を記念する事業

続けざまにハンギョレさんから。慶尚北道亀尾市が進める朴正煕大統領記念事業と、京畿道利川市の民主化運動記念公園開園に関するルポルタージュ記事です。文化芸能に全く関心のないハンギョレ日本語版サイトも、こっち方面のネタは大好物なので、その点では助かります。

まずは亀尾の朴正煕から。ハンギョレさんらしいルポとも言えますが、ちゃんと現地取材していて、今後の再訪に向けて参考になります。もう7年も経っていますから、前回は新しい朴正煕の銅像もありませんでしたし、「セマウル運動テーマ公園造成事業」が進む生家横の土地もただの荒れ地でした。

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まあそもそも、亀尾市に「朴正煕を記念するな」というのは、光州市に「金大中を記念するな」というのと同じことで、無理な話です。記事の書きぶりを見る限り、そのあたりの事情はハンギョレの記者さんもわかってはいると思います。

[ルポ]故・朴正熙大統領生誕祭に地元の亀尾市が約4億円計上…
登録 : 2016.05.23 09:44 修正 : 2016.05.23 16:51

「半神半人」偶像化が進む亀尾市朴正熙路107を訪ねる
朴正熙追悼事業が盛んな亀尾市
銅像、生家、体育館…毎年事業
来年の生誕100周年祭迎え
28億ウォンのミュージカル制作も推進

亀尾の今日を作った「半神半人」と礼賛
在任時に田舎の寒村を産業団地に開発
市長「道義的レベルの追悼行事」
経済的效果のない偶像化に批判


朴正熙元大統領//ハンギョレ新聞社

 慶尚北道亀尾(クミ)市朴正熙(パクチョンヒ)路107。これは朴正熙元大統領(1917~1979)が生まれた場所を示す道路名住所だ。亀尾市は、朴元大統領生地一帯の道路名住所を「朴正熙路」と命名した。もとの地番は、慶尚北道亀尾市上毛洞171。この道路名住所を訪ねると、朴元大統領が生家が現れる。

 19日午後1時、朴正熙元大統領の生家に通じる道には「セマウルへ!世界へ!未来へ!」というスローガンが刻まれたセマウル運動のシンボル像があった。セマウル帽をかぶった4人の男がシャベルを持ったり手押し車を引いて力強く前に進む姿をしている。像の周辺には朴元大統領の行跡や業績が書かれた掲示板がいくつか建っていた。「朴正熙大統領、セマウル運動の創始者、祖国近代化の主役」と書かれた大きな掲示板も見えた。

 像から右の道に沿って1.5キロ進むと、高さ5メートルの朴元大統領の銅像が現れる。2011年11月に義援金6億ウォン(現在のレートで約5500万円)で作られたものだ。銅像の後ろには、朴元大統領が書いた詩、夫人の陸英修(ユクヨンス)氏と一緒に撮った写真、「セマウル歌」の歌詞などが刻まれた大理石の壁があった。大理石の壁の近くには、セマウル歌が流され続けていた。その背後では「セマウル運動テーマ公園造成事業」の工事が行われていた。

 朴元大統領の銅像周辺で会った住民のパク氏(75)に、朴元大統領をどう思うか尋ねてみた。彼は「あの方のおかげで我々は貧困から脱し、今こうしてご飯も食べていけるようになった。君のような若い人たち朴正熙が好きじゃないと言うけど、一度でもひもじい思いをしたら、しっかりした考えを持つようになるだろう」と声を荒げた。


高さ5メートルの朴元大統領の銅像//ハンギョレ新聞社


慶尚北道亀尾市朴正熙路107にある朴正熙元大統領の生家。朴元大統領は1917年にここで生まれた=キム・イルウ記者//ハンギョレ新聞社

 セマウル運動のシンボル像がある場所に戻り、左側の道に沿って進むと「朴正熙大統領民族中興館」が現れた。朴元大統領の遺品などが展示されている。民族中興館の記念品売り場には、セマウル帽と朴元大統領夫妻の写真が焼き込まれた皿や額縁などが売られていた。

 民族中興館からさらに進み現れるのが朴元大統領の生家だ。1917年に生まれた朴元大統領が、1937年に大邱師範学校を卒業する時まで住んだ家だ。生家は崩れ落ちそうな状態だったが、5・16軍事クーデター3年後の1964年に現在の姿に復元された。生家の隣には朴元大統領夫妻の追悼館がある。追悼館の入口にある芳名録で、ソさんとイさんが書き残した「亀尾経済を助けてください」という文字が目についた。

 朴元大統領が死んでから37年たつが、亀尾市は今も故人のために大忙しだ。亀尾市が朴元大統領を素材にした28億ウォン(約2億6000万円)のミュージカル「孤独な決断」(仮称)の制作を推進することが分かったためだ。亀尾参与連帯など市民団体は毎週水曜日に亀尾市役所入口でミュージカル制作反対の1人デモを続けている。同連帯は「朴元大統領追悼事業に税金を使うのは経済的効果もない行き過ぎた偶像化」とし中断を求めている。


2002年に亀尾体育館から名前を変えた朴正熙体育館=キム・イルウ記者//ハンギョレ新聞社

 亀尾市は今まで、朴元大統領追悼事業に多額の資金を使ってきた。復元された生家に加え、銅像や追悼館がすでに作られているが、亀尾市は2012年3月に58億5千万ウォン(同、約5億4000万円)かけ朴正熙大統領民族中興館を建設した。2006年2月からは286億ウォン(同、約26億4000万円)かけ「朴正熙大統領生家周辺公園化事業」(7万7千平方メートル)を推進している。2013年10月には870億ウォン(同、約80億円)かけ「セマウル運動テーマ公園造成事業」(25万平方メートル)も開始させた。

 また、亀尾市は2014年6月に5400万ウォン(同、約500万円)かけ「朴正熙大統領テーマソングの発掘・普及事業」もした。200億ウォン(同、約18億円)かけた朴元大統領生家近くの「朴正熙大統領歴史資料館」も建設される計画だ。これに先立つ2002年には、亀尾市広坪洞にあった亀尾体育館の名称を「朴正熙体育館」に変えた。


870億ウォンの予算をかけるセマウル運動テーマ公園造成事業の現場=キム・イルウ記者//ハンギョレ新聞社

 毎年、朴元大統領が生まれた日(11月14日)や、亡くなった日(10月26日)にそれぞれ開かれる生誕祭と追悼祭をする亀尾市の予算も日増しに増えている。2012年の追悼祭予算は686万ウォンだったが、朴槿恵(パククネ)大統領が就任した2013年に1470万ウォンへと大幅に増えた。生誕祭の予算も2012年の7350万ウォンから2013年に7742万ウォンに増やされている。亀尾市が過去7年間(2009~2015年)に生誕祭と追悼祭に使った予算は合計5億3338万ウォン(約5000万円)だ。亀尾市では来年40億ウォン(約3億7000万円)かけ朴元大統領100周年生誕祭を実施する計画がある。

 亀尾参与連帯は声明を出し、「朴元大統領に対する一方的な美化と偶像化が懸念される。また事業規模があまりにも大きく、財政負担になる。このような事業で得られる経済的利益や効果にも疑問」と指摘した。

 亀尾市は先祖代々の墓を中心とした田舎の村だった。1962年1月1日、亀尾面から亀尾邑に昇格している。この田舎の村が韓国最大の内陸の産業団地に開発されたのは朴元大統領在任中(1963~1979年)。1969年に亀尾国家産業1団地、1977年に亀尾国家産業2団地、3団地が作られ始めた。盧泰愚(ノテウ)大統領在任中(1988~1993年)は、高牙、海平、山東の3つの農工団地が建設された。金大中(キムデジュン)大統領在任中(1998~2003年)は亀尾国家産業4団地も造成された。

 亀尾の産業団地と農工団地の面積は2596万5千平方メートルに及ぶ。昨年12月基準で3206社で11万1689人が働いている。亀尾市の人口は41万人余りだ。


亀尾市が出す朴正熙・元大統領生誕祭の予算//ハンギョレ新聞社

 2005年に初めて輸出額300億ドルを達成。慶尚北道の23市郡の総輸出額の60%以上が亀尾から出された。1978年2月15日、亀尾邑は亀尾市に昇格。亀尾で経済開発を経験してきた年配の人の間では「朴元大統領が今日の亀尾を作った」との認識は強い。

 2013年11月14日の朴元大統領生誕祭に参加したナム・ユジン亀尾市長は、記念辞で「朴正熙大統領は半神半人(半分は神、半分は人)」と語った。2014年の地方選挙で慶尚北道知事に出馬したパク・スンホ元浦項市長は「亀尾市の名を朴正煕市に変えよう」と提案したこともある。昨年、朴元大統領の生家を訪れた人は51万9211人にもなる。

 ナム亀尾市長は「盧武鉉大統領や金大中大統領も生地で追悼行事をするのだから、朴正熙大統領もそうした道義的レベルで亀尾市も各種の追悼行事をする。この問題をあまり理念の問題としてとらえるべきでなく、朴大統領が生まれて発展させた亀尾の地域特性と見て欲しい」と話した。

 しかし亀尾は今、経済不況に見舞われている。2007年に349億ドルまで上がった亀尾地域の輸出額は、2009年に289億ドルに落ち込んだ。それ以降、輸出額は2010年から再び値上がりし、2013年に367億ドルを達成したが、再び落ち始め、昨年は273億ドルでしかなかった。亀尾はかつて韓国の総輸出の10%を占めることもあったが、今は5%に比重が下がった。亀尾には社員300人以下の企業が多く、業種も多角化されているため、他の地域に比べ落ち込みはそれほど早くはない。

 亀尾参与連帯のチェ・インヒョク事務局長は「経済不況に加えて企業が首都圏に相次いで流出しており、かつて成功を収めた亀尾の経済も次第に厳しくなっている。中央政府に頼らず、朴元大統領追悼事業に予算も減らし、住民福祉拡大などに充てねばならない」と話した。

亀尾/キム・イルウ記者

韓国語原文入力:2016-05-22 20:04

http://www.hani.co.kr/arti/society/area/744957.html訳Y.B

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/24214.html

いっぽう、こちらは利川の民主化運動記念公園。延びに延びていた開園は、2016年6月9日となったわけですね。開園関連の記事は、後で別途まとめることにしましょう。

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当然と言えば当然ですが、利川市街からも南の安城市竹山面からも10キロ以上離れ、バスも一日2本しか通らないという僻地ぶりは変わっていないようです。ここも再訪するつもりですけど、クルマでもないと不便なんよなあ…。

【利川の風景】利川民主公園への道 - 大塚愛と死の哲学

こちらの記事もまあ、ハンギョレさんらしいものです。ただ、改めてこうして振り返ってみると、進歩政権時代に決定された事業が、その後の保守政権のもとでよくここまでこぎつけたなあ、と思います。その点に限っても、この事業には意義深いものがありますし、関係者の感慨もひとしおでしょう。

ただ、記事中ではサラッと流してますけど、この事業をめぐる「対立」は、保守政権とのものだけではありませんからね。姜慶大が利川へ、李韓烈が光州へと分かれ(てしまっ)た民主化運動の烈士たちの行方については、今後さらに見守っていくつもりです。

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民主化運動記念公園が利川に開園、敷地決定から15年ぶり
登録 : 2016.06.09 00:40 修正 : 2016.06.10 07:46


民主化運動記念公園 =キム・ギソン記者//ハンギョレ新聞社

 あの熱かった1987年6月の民主抗争を思い出しながら南に走った。中部高速道路の東ソウル出入口から43キロメートル離れた南利川交差点の出口を抜けると「民主化運動記念公園」の表示板が立っていた。

 勇壮な花こう岩の「歴史の門」をくぐると、民主化闘争の現場を覆った数十本の挽章(弔いに使われる旗)がはためき歓迎してくれた。民主化運動の現場に立った人々を四角い光の柱で形象化した「民主の門」は、民主化運動記念館につながっていた。民主烈士の献身と犠牲を垣間見ることができる記念館は「民主は人だ」を主題に構成されていた。

 展示室には冷酷な朴正煕(パクチョンヒ)、全斗煥(チョンドゥファン)軍事独裁政権に対抗した民主化運動の歴史が時代別に整理されている。民主化運動の動画と説明文の間には、独裁に抵抗し撒布された印刷物や壁新聞が陳列され、民主化闘争の現場を生き生きと伝える。展示室内には1970年代の政経癒着の陰で苦しい生活を強いられた縫製労働者の暮らしを模型で蘇らせ、また別の展示室には「軍事政権打倒」を叫んで逮捕連行され水拷問にあった民主烈士の姿を生々しく再現した。

 記念空間と並んでいる追慕空間は、民主英霊の遺影と位牌が安置された遺影奉安所が用意され、自由・平等・正義・平和を祈る大型追慕造形物の後には現在49基の民主烈士墓が安置されている。

 この墓所には、1986年4月28日前方入所撤廃闘争を宣言し「反戦反核ヤンキーゴーホーム」を叫び焼身自決した故キム・セジン烈士(当時、ソウル大生)が安置されている。1991年4月「盧泰愚(ノテウ)軍事政権打倒」を主張しデモを行い、白骨団(私服武装警察官)に鉄パイプで殴られ亡くなった故カン・ギョンテ烈士(当時、明知大生)の墓もある。また「全斗煥(チョンドゥファン)政権打倒」を叫び警察に連行され、1982年11月6日に強制徴兵されて軍服務中の翌年4月30日~5月3日に保安部隊で調査を受け、5月4日に疑問死を遂げた故イ・ユンソン烈士(当時、成均館大生)も一緒に眠っている。朴正煕政権の代表的容共ねつ造事件である人民革命党事件の犠牲者も眠りについている。

 韓国現代史の悲劇であり誇りでもある民主化運動を見れる民主化運動記念公園が、9日午後2時正式に開園する。2001年に民主化運動記念10大事業として決定されてから15年ぶりだ。京畿道利川市暮加面於農里山28-4番地一帯に造成された。首相室傘下の民主化運動関連者名誉回復および補償審議支援委員会と利川市の共催で公園民主広場で開館式を開く。

 記念公園は民主化運動の過程で犠牲になった英霊の魂を賛え、遺族たちの受けた傷を慰労すると同時に、名誉回復のために始まった事業だ。2007年、政府の記念公園造成事業希望地方自治体公募で利川市が誘致の意思を明らかにし事業が進められた。2011年6月に着工した後、昨年10月建築物が竣工し、その後展示物の工事と施設・装備安定化のための試験運営を終えた。

 施設の規模は15万674平方メートルの敷地に建築延面積6970平方メートルで、総額466億ウォンの事業費が投入された。記念公園には法律により民主化運動関連者と認められた136人の烈士が安置される墓地と記念館、便宜施設などが設けられる。民主化運動に関連した公演やセミナーが開かれる多目的複合空間やセミナー室もある。記念館の展示施設は、各種の企画展や常設展示の空間として活用され、委員会は今後も民主化運動と関連する歴史資料を持続的に収集補完する計画だ。記念公園は行政自治部と利川市が結んだ運営協約により利川市が直接運営する予定だ。

 民主化運動記念公園は、2007年に事業候補地が確定した後、最近まで多くの迂余曲折を経た。金大中(キムデジュン)大統領の献身的努力で実を結んだが、その後遅々として進まず、李明博(イミョンバク)、朴槿恵(パククネ)政権まで続き、遺族の反発や分裂まで起こった。アクセスで劣る奥深い山であることに加え、当初傾斜していた山を無理に削ったために山崩れの心配もされた。中部高速道路の車両騒音問題も提起された。また、墓地安置対象者の選定過程でもこれを最小化しようとする政権と遺族の間の摩擦も起きた。


民主化運動記念公園 =キム・ギソン記者//ハンギョレ新聞社


民主化運動記念公園 =キム・ギソン記者//ハンギョレ新聞社


民主化運動記念公園 =キム・ギソン記者//ハンギョレ新聞社


民主化運動記念公園 =キム・ギソン記者//ハンギョレ新聞社


民主化運動記念公園 =キム・ギソン記者//ハンギョレ新聞社

 特に記念館の内容物を巡って、朴正煕、全斗煥政権の鉄拳統治など権力の過ちを浮き彫りにしなければならないという遺族側と、これを望まない現政権との異見も大きかった。実際、現在造成された記念館は、軍事政権が民主化運動勢力に対して犯した蛮行は詳しく扱わず、民主化運動過程でのデモや集会に焦点が合わされている。

 故カン・ギョンテ烈士の父であり、全国民主化運動遺族協議会の会長でもあるカン・ミンジョ氏(75)は「民主烈士の願いが込められた公園である以上、歴史を正しく書くべきなのに、独裁者の横暴や人権弾圧の実状が十分に書かれてなくて物足りない。だが、歴史は今後も書き続けなければならないので、次第に補完されるものと信じる」と語った。彼は「ようやく造成された墓地なので、民主と平和の聖地として確立されることを切に望む。公園の正式開園は韓国の民主主義を発展させる新たな始まり」と付け加えた。

利川/キム・ギソン記者

韓国語原文入力:2016-06-08 21:29
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/747459.html 訳J.S(2351字)

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/24349.html