山極寿一・京都大学学長のインタビュー

インタビュアーの態度というか聞き方がどうも変な感じで気持ち悪く、そこは気になりますが、内容自体は「さすが山極学長」という内容なので、後々振り返ることができるようにクリップ。

異見交論40「国立大学法人化は失敗だ」山極寿一氏(京都大学学長)

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山極寿一(やまぎわじゅいち) 1952年生まれ。霊長類研究の第一人者で、特にゴリラに詳しい。「ゴリラは語る」「『サル化』する人間社会」など著書多数。元日本霊長類学会会長。2014年に京都大学学長就任(任期6年)。


 国立大学が「民間発想のマネジメント」により「自律した経営」をする「法人」となって、十余年。以来、国から支給される基礎的な運営資金が毎年削減される中、教育や研究に充てる資金を、国立同士、あるいは私立や公立と競い合うようになった。教育や研究はどの大学もが担う使命だ。だとすると、国立大学が「国立」であり続ける意味はどこにあるのか。国立大学協会会長、日本学術会議会長も務める京都大学の山極寿一・学長に聞いた。(聞き手・読売新聞専門委員 松本美奈


■ミスマッチのつけ

――安倍首相は2月8日、「大学は知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を高める原動力」と述べた。では、国立大学とは......。

山極 まず、こちらの言いたいことを言わせてほしい。

 国立大学法人化は失敗だった、と思っている。文科省と国立大学が一体となって取り組んできた教育研究の質の向上を切り離し、単なる財政問題として処理した。国の財政が悪化している。その責任を法人化して各大学法人に押しつけたのだ。はっきり「失敗」だと認めてもらわないと、これからの大学改革はできない。

――「法人化が失敗」という言葉が出てくるとは思わなかった。前国大協会長の里見・前東北大学長は「一定の意義があった」と話していた(>>vol.10)。

山極 1991年の大学設置基準大綱化で、東京大学以外は教養部を廃止した。教養部は高校と大学教育を接続する機関だった。それに続けて大学院重点化が行われた。企業サイドの求めに応じて、高度な科学技術、世界の動向に応じた高度な人材育成をすることがミッションとされた。そのかたわら、文部省(当時)は「ポスドク一万人計画」を打ち出した。博士の学位をとっても就職できない事態が起こったからだ。結局、企業の改革には結びつかなかったのだ。そしてグローバル時代を迎え、企業は安い人材、また高度な人材を求めて海外へ出口を求めた。日本の大学との連携は全然、進まなかった。いまだに一括採用が横行し、見ているのは大学入学時の偏差値と大学のブランドだけ。国が大学に求めているものは、前のめり型の国際競争で企業に資する人材育成だ。だから「大学はなっていない」とか「大学の研究力が落ちている」と言っている。研究力といっても、国は論文数しか見ていない。

 法人化以来、運営費交付金※を削減し、一方で競争的資金を打ち立てるから、研究者はその獲得競争に邁進して、実際の研究時間を減らしている。現状では、明らかに研究者の数と研究時間が減っているのに、企業はますます躍起になって「高度人材育成」「社会に役立つ人材」を求める。政府と企業のミスマッチ、企業と大学のミスマッチが起きているのだ。

※運営費交付金

基礎的な運営資金として国から国立大学や国立研究所に支給されている資金。86大学に総額約1兆1000億円。主に教職員の人件費や研究資金に充てられている。

■主な大学改革

《1991年》 大学設置基準の大綱化

《90年代》 国立大学で大学院重点化

「大学院重点化」とは、学部を基礎とした組織から、大学院を基礎とした大学に変更すること。学生・院生数をもとに国から支給される「積算校費」が、院生の方が高いこともあり、最終的には国立16大学で採用した。

《96~2000年度》 ポスドク1万人計画

博士の学位取得者の雇用を促すために、国が期限付きの雇用財源を支給。大学院重点化で増えすぎたドクターの救済策。

《2004年》 国立大学法人

《2012年》 国立大学のミッション再定義(~13年)

大学改革実行プラン発表 

「大学の機能の再構築」と「大学ガバナンス(統治)の充実・強化」を柱とし、具体策として(1)国立大学改革(2)大学入試改革(3)研究力強化――などを挙げた。

《2015年》「新時代を見据えた国立大学改革」発表

《2017年》「指定国立大学」選定

世界のトップレベル大学と競うことのできる国立大学を選び、国が重点的にサポートする制度。京都、東京、東北の3大学が選ばれた。

――その中で、国立大学の「差別化」が進んでいる。

山極 指定国立大学は、文科省が初めて行った差別化だ。でも、国が研究型大学の3大学に何を望んでいるのか、未来の大学構想に結びつけているのか。そうは思えない。要求過多だ。お金はないけれど、要求はする。それでは何もできない。国が出す補助金には常に目的があるから、その目的に応じて、大学の態勢を変えることになるが、それは大学の個性化を摘む一番悪いやり方だ。たとえば外国人教員の数を増やすとか、そういった話だ。

 現場はどんどん疲弊し、いろいろと事件を起こす。研究不正が発覚したりした京都大学が、こういうことを言うのもナンだと思うけれどね。

■国立大学は公共財

――ズバリ、国立大学とは何か。

山極 国立大学は公共財だ。国民の税金で作っていただいたもので、国民の税金で運営させていただいているものだ。だから大学の知は、一私企業に利用されてはいけないものだ。国民全体の資産にならなければいけない。そういう意味で、もっと自由な学生や研究者のモビリティー(流動性)があり、なおかつその成果を誰もが利用できるオープンサイエンス、オープンイノベーションの拠点にならなければと考える。けれども、今のやり方は組織と組織が競争して組織のために尽くし、組織のためにお金を取ってくる人がエライという風潮になりつつある。それは間違いではないか。国立大学でつくられた知的財産は大学同士でお互いに共有し、政府や国民と共有し、その種を芽吹かせていかなくてはだめだと思う。だから、大学同士は戦うのではなく、むしろ連携しなくていけない。研究者同士が大学の枠を超え、企業の枠を超えて連携し、その新しい成果を世に問うべきだ。

――国際的な大学ランキングを重視する政策も横行している。

山極 その結果、一律の指標をもとに財務省から文科省が一生懸命お金を取って、それを実現するという方向になっている。旧ソ連がやっていた計画経済、その失敗例と同じことしているわけだ。こんなことをやって、一体何になるのか。大学は個性を持って、この大学で学べばこういうことができるはずだと学生の意欲や希望を高め、学生と教員が一体となって新しい世界を切りひらく所ではないか。それが崩れたわけだ。どの大学も同じことを目指す。そんなバカげたことがあるか。怒りがこみあげてくる。

――教育の面ではどうか。

山極 今の学生は、育てるのに大変、手間がかかる。だから、教員はそこに充てる時間がものすごく増えている。そもそも教員数が減り、事務職員も削られているから、教育や研究にかける時間が減っていくのは当たり前。教育・研究は公共財だ。教育を受けられる権利は、どの国民も平等に持っている。教育や研究が公共財だとすれば、その成果は自分のために使ってはいけないはずだ。社会のために、国民のために、世界のために使わなくてはいけない。ところが、組織と組織の資金獲得競争になっているから、お金を取れる人がエライ人、みたいなバカなことが起こるわけだ。繰り返しになるけれど。

■競争の果てに

――その結果、研究不正も起きる。

山極 研究成果をあげれば、地位の上昇につながる。自分が大きな外部資金を得ることにもつながる。となれば、いきおい研究不正も増える。

 一方で、所属する組織によって研究者に格差が広がっている。公共財としての大学は、東大であろうと阪大であろうと地方の小さな大学であろうと、研究者が自由に行き来できなければならない。いろんな大学を渡り歩きながら研究者は切磋琢磨するのだ。東大は一番お金をかけている。東大に行けば自分の好きな研究ができるので、競争力が高まる。その一方で、あぶれた人たちは劣悪な研究環境で自分の研究をしなくてはならなくなる。そうした連鎖の下、あぶれた人たち、次世代の人たちはどうするのか。結果として、研究者がどんどん減っていくことになる。

――ご指摘の通りだとは思う。だが、国立大学に反論のチャンスはあったはずだ。

山極 猛烈に言ったよ。

――すでに文科省は国立大学を三つに分ける政策を打ち出している。「地域のニーズにこたえる人材育成・研究」「分野ごとのすぐれた教育研究」「世界トップ大学と伍して卓越した教育研究」の3タイプだ。そこにさらに差別化を推し進める「指定国立大学」が始まった。京都大学はなぜ、手を挙げたのか。

山極 研究型大学として、より良い条件を求めなければならないからだ。我々も最初は指定国立大学のやり方には反対だったから、「こんなものに手を挙げる気はない」と言っていた。それからだんだん歩み寄りを始め、国がやろうとしていることもはっきりした。「国際水準の研究大学にいろんな措置を与えて、後押しをしていきましょう」と。それにひとまず、我々は乗った。いずれ研究大学は広がるだろう、京大がその先陣を切るのだという構えだった。そこまでは問題だと思っていない。

 問題はそこから先だ。国大協会長としていうと、国は三分類をこれまで以上に進めていくだろう。果たして文科省が、独自の企画を立てられるのだろうか。ますます財務省の言う通りになって三つの分類をただ推し進めていくのではないか。そうなっては、取り返しがつかないだろう。

■国立大学の国際化

――未来に向けてどうしたいのか。

山極 国立大学は公共財という考え。これが全てを語っている。日本は初等中等を含め、世界に対して誇れる教育をしてきた。その教育を海外に輸出してはどうか。教育者がアジアにアフリカ、先進国に行く。それは、実際に求められていることだ。事実、京大はエジプト工科大学大学院に教員を送っている。

 政府は、米国や欧州のような国際化しか視野になかった。EUという大きな経済圏の中で学生や教員が自由に動け、高等教育が初めから無償化できている欧州と、日本が同じことをできるわけがない。その結果、国の金を使って留学生や教員を海外から招致するようなことになる。高額の入学金や授業料、寄付金で資産を増やしている米国の研究大学の手法を、日本の国立大学に求めても無理なことは自明だろう。日本には日本のやり方があるのだ。

 国の外交政策として、日本型の教育をたとえばアジアに輸出する。そういった諸国から集中的に留学生を集めて、英語教育と日本語教育を併用させて日本型の教育でアジアを支える人材を育てたらどうだろう。それを担う力を、日本の国立大学は持っている。

――ところで、学部の定員を減らす考えはないか。少なくなった若者を他大学と奪い合っても、進学高校同士の競争を激化させるだけだ。各大学の教育に磨きをかけるためにも、他大学の学生に広く門戸を開いたらどうか。

山極 学部の定数を減らす考えはある。ただ、定数を減らすと、学部の教員の熱意を落とすことにもなる。問題は二つある。まず、学部生の減で学部教育がおろそかになりがちになる。結果、教員数の減にもつながり、質が落ちる。もう一点は、大学院でいきなり特化した教育にすると、ますます高校と大学の接続が難しくなるということだ。今回、入試でミスをして大変申し訳なく、忸怩たる思いがあるが、背景には、高校教育と大学教育をきちんと接続できる教員が、大綱化による教養部廃止以来、少なくなってしまったということがあるのかも知れないと考えている。さらに、京大は研究所が多いから、もとより学部教育に参加していない教員も多くいる。その中で入試業務が負担化している。きちんと時間と労力を割けなくなっているのかも知れない。

 やはり、学部教育をしっかりやることが大事だ。高校教育からきた学生をしっかり育て、日本の公共財として、研究者を、企業人を育てていかないと。研究型大学が研究だけに特化することは、公共財であることに反する。総合大学としての大きなミッションは、幅広い教養と幅広い出口を保証することだろう。

――なるほど、研究型大学のレベルを保ちたいのならば、学部をやめて全国から優秀な学生を集めればいいのではないかと考えていたが、そういう考え方もあるか。最後に問いたい。国立大学の差別化が進み、さらに国立大学の統合※も取りざたされている。どう考えるか。

※国立大学の統合

一法人が複数の国立大学を運営する構想。その形状から「アンブレラ」方式とも呼ばれる。

山極 連携のあり方を模索すべきだろう。地方の国立大学に通っている学生も、東大で授業を受けることができる、そういう循環が必要だ。たとえば、カリフォルニアのコミュニティーカレッジとカリフォルニア州立大学がやっていることは一つのモデルになるだろう。日本は小さな国で、全都道府県に国立大学があるというメリットを生かすことが必要だ。

 特に留学生だ。国立大学協会で留学生の窓口を一本化し、様々な大学に散らばらせることを考えている。国立大学の幅の広さ、個性の豊かさを生かす教育ができる。公立大学とも連携していく。文科省の大きな壁は公立大学総務省所管だから、コントロールが利かない。私立大学はもっと利かない。だから国立大学に集中砲火を浴びせているのだが、国立大学だけが変わっても大学全体が変わるわけではない。

 国立大学で学んでいる学生、研究者は公共財としての自分を意識しなくてはならない。教育も研究も.企業との接点もその点から考えなくてはいけない。それを誘導していくのが政府と文科省文科省はその司令塔なのだから。

――法人化で国立大学がよくなっていない。その根底に、組織と組織の過度な競争がある、という考えはよく分かった。組織同士の戦いは、意味がないのか。動物は群れ同士で戦っているが。

山極 群れの作り方が違う。人間は群れを行ったり来たりできる。それが人間の特徴。一つの群れに所属しているわけではない。複数の組織に属して能力を高めるのが人間の特性だ。それができるような環境作りを実現したい。

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