続きです。南海追慕ヌリについての記事はいちおう前回で終わりなのですが、これはその余話として。
blue-black-osaka.hatenablog.com
南海追慕ヌリからの帰りは、平峴平里自然葬追慕墓域と幽宅の丘の間から里の方に下りる横道をいつも使っているのですが、これはその入り口の脇の光景です。追慕ヌリに接していますが、おそらくその場外です。
んー。手前の祠堂型納骨墓は見覚えあるけど、その奥は…。
こんなんやったかな…。
こんな墓地団地がいつできたのか、よくわからんけど、来はじめた当初にはなかったと思うなあ*1。たぶんここ数年のことのはず。
おそらく、先山にあった祖先の土葬墓を移葬してここにまとめた(もしくはこれからまとめる)んでしょう。納骨平葬と宗中・門中墓地とのコラボレーションは、このすぐ裏手の平峴平里自然葬追慕墓域で観察できる形態ですので、もしかしたらあっちがモデルとなってこっちが成立したのでしょうか。そう考えると整合性が取れますね*2。
で、このエリアのさらに奥、階段を下って行ったところには、別の宗中・門中墓が。手前にもあった祠堂型納骨墓ですが、この形式は納骨平葬墓が登場する直前まで、数ある祖先の土葬墓を一つにまとめて合理化するときに主流だったスタイルです*3。これが石物を多用しすぎて環境に親和的でない、ということで、納骨平葬墓や自然葬が提案されたという経緯があります。
まあ確かに、面積的に縮小されてはいますが、「親環境的」とは言い難いですね。
ということは、この辺に元々あったと思われるお墓は、旧来型の土葬墓から火葬して納骨する祠堂型納骨墓に転換しつつあるところで、納骨平葬墓が登場してそちらにトレンドが流れた、とまとめられそうです。家族・一族単位から個人単位へという都市的な変容は措いたままに、火葬の普及を通じて墓地の合理化(納骨墓→納骨平葬墓)が進んだ、というこのプロセスは、1990年代後半から2000年代を経て現在に至る、この20年ほどの出来事だと思われます。