【千葉の風景】四街道護国神社

こちらの続き。千葉に一泊して日を改めましたが、相変わらずの雨です。

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この日はまず千葉から四街道へ。何度も言いますが雨です。

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この児童公園の中に、四街道の護国神社があります。「四街道町」になっていますが、現在の四街道は市ですね。

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小さいながらもしっかりした社があり、そのわきにフェンスに囲われて大きな碑が四基立っています。「町の護国神社」としてはかなり立派にしっかり維持管理されています。

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雨の日はこうしたものを観察するのにはホント向かないので、晴れた日に撮影された先達の写真をご確認ください。

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この護国神社の来歴については、いちばん下のブログ記事で引用されている四街道市史『四街道の歴史』の記述が簡潔にまとめてくれています。

第三章 四街道の歴史
5 軍隊と人々のつながり
日露戦争と忠魂碑の建立
国学園の南側、市の給水塔の近くに護国神社があります。ここに大きな忠魂碑が四基建っています。忠魂碑とは戦争で亡くなった軍人たちを祀る石碑で、日露戦争後全国各地に建てられるようになりました。日露戦争では、日清戦争とは比較にならないほど多くの人々が戦死し、民衆は戦争の犠牲者を身近に持つことになりました。各都道府県は招魂社 (護国神社)を建てて招魂祭を行い、町や村には忠魂碑が建てられました。
四街道の護国神社は、四街道駅北側にある八百稲荷神社の境内にあった招魂社を戦後現在地に移したものです。忠魂碑の向かって左側二基は旧旭村の旭小学校にあったもので、右側二基は山千代田町の南小学校にあったものです。昭和三〇年(一九五五)に旭村と千代田町が合併して四街道町になったときにここに移されました。入口にある「四街道町護国神社」の石柱と手前の鳥居は、昭和四九年に四街道町戦没者遺族会が再建したものであり、奥の鳥居は、陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校が昭和一三年(一九三八)に奉納したものです。社は、砲兵学校内にあった千代田宮の社であるといわれています。

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では、すぐ近くの愛国学園の正門前にある「野戦重砲兵第四聯隊跡」碑をちらっと見てから、少し移動することにします。

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