映画「主戦場」を観る。

日本での公開からはだいぶ日が経ってしまいましたが、評判になっていた「主戦場」を観てきました。

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面白い作品です。問題の筋道とともに、そこに関わる人々の生身が見えてきます。どんな人が、どんな論理と情念をもって「それ」を語っているか。どんな全体状況の中に、個々の人物が言葉を発しているのか。

詳細は、自身で本編作品を観たうえで、パンフレット*1などで反芻すればよいと思います。個人的に特に印象に残ったのは、ロナルド・レーガン櫻井よしこ、そしてやはり加瀬英明の登場シーンでしたね。

この作品の背景を含めた評論として、文春のこの記事をクリップしておきたいと思います。作品全体を俯瞰できる良記事です。

従軍慰安婦をテーマにした話題作『主戦場』で“あんなインタビュー”が撮れた理由
プロパガンダ映画か、野心的なドキュメンタリー作品か
大島 新 2019/06/11

「いまイメージフォーラムでやってる『主戦場』っていう映画、観た?」
「観たよ。面白かったけど、もやっとした」
「まだ観てないけど、知り合いのディレクターがめちゃくちゃ面白いって言ってた」

 最近、ドキュメンタリーの作り手たちの間で話題となっているのが、旧日本軍の従軍慰安婦問題に真っ向から切り込んだドキュメンタリー映画『主戦場』だ。

保守派の論客は上映中止を求める抗議声明

慰安婦は性奴隷だったのか、売春婦だったのか」「強制連行はあったのか、なかったのか」などの論点について、対立する主張を交互に紹介しながら問題の本質に迫ろうとする野心的なドキュメンタリーは、4月の公開直後から評判を呼び、都内では1館のみの上映館である渋谷の劇場に多くの観客が詰めかけた(※現在は「アップリンク吉祥寺」でも上映)。

 さらにこの5月30日に、取材を受けた藤岡信勝氏ら一部の出演者が会見を開き、「監督が自分たちを欺いて出演させた。大学院生の学術研究と言われてインタビューを受けたが、映画として公開されるとは聞いていなかった」と主張。さらに「編集が中立でなく、自分たちの発言が切り取られている。グロテスクなプロパガンダ映画だ」と、7人の連名で上映中止を求める抗議声明を発表した。その中には、藤岡氏に加え、保守派の論客として知られる櫻井よしこ氏やケント・ギルバート氏の名前もある。

 一方6月3日には、監督のミキ・デザキ氏が会見を開き反論した。「取材前に合意書を交わし、映画化の可能性があることを伝えている」と主張し、「(抗議は)彼らが映画の内容を気に入らなかったからではないか」と語った。

 この騒動が報じられたことによって、抗議声明を出した保守派論客の意図とは裏腹に、映画の存在が多くの人に知られることになり、『主戦場』の動員はさらに増えることだろう。

あまりにもあけすけで、無防備な発言の数々だ

 語るべきことが満載のこの映画について、ドキュメンタリー制作者の視点で評したい。

 まず、映画を観た多くの人が抱く素直な感想が、「よくあんなインタビューが撮れてるよね」だ。

「あんなインタビュー」とは、保守派の論客たちによるあまりにもあけすけで、無防備な発言の数々だ。

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『主戦場』に出演する論客たち ©NO MAN PRODUCTIONS LLC

「どんなに頑張っても中国や韓国は日本より優れた技術が持てないからプロパガンダで日本を貶めている」
「日本人は子どもの頃から嘘をついちゃいけませんよと(教えられてきた)」
「(中国や韓国の)嘘は当たり前っていう社会と、嘘はダメなのでほとんど嘘がない社会(日本)のギャップだというふうに、私は思っています」(杉田水脈氏)

フェミニズムを始めたのはブサイクな人たちなんですよ。ようするに誰にも相手にされないような女性。心も汚い、見た目も汚い。こういう人たちなんです」(藤木俊一氏)

「国家は謝罪しちゃいけないんですよ。国家は謝罪しないって、基本命題ですから。是非覚えておいてください。国家はね、仮にそれが事実であったとしても、謝罪したら、その時点で終わりなんです」(藤岡信勝氏)

それぞれの立場にいる人たちの口を軽くした取材力

 こうした発言は、慰安婦論争とは関係なく、ただただあ然とさせられる“主張”である。それが、衆議院議員や元大学教授の口から堂々と発せられているのだ。なぜこんなことを、彼らはカメラの前で語ったのか。

 まず、ミキ・デザキ監督の取材力に注目したい。現在36歳の日系アメリカ人のデザキ監督は、YouTubeでの彼の動画を見る限り、容姿こそ東洋系だが語り口は陽気なアメリカ人という雰囲気だ。慰安婦問題が日本と韓国で物議を醸していることを知った監督が、双方の主張を知りたいと、虚心坦懐に話を聞きに行ったことが、それぞれの立場にいる人たちの口を軽くしたのだろう。

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©NO MAN PRODUCTIONS LLC

 そしておそらく、監督には作戦があったはずだ。とにかく存分に彼らが考えていることを喋らせたい、という狙いだ。通訳を務めた人とともに、フラットな取材者であることを相手に伝え、彼らから本音を引き出すような場の雰囲気を作ったのだろう。私もインタビューの際に、たとえ自分とは考え方の違う人であっても、相手の主張に合わせるような相槌を打ちながら話を聞くスタイルをとることもある。デザキ監督はこの問題を調べ尽くした上で、相手が話しやすい空気を作り、存分に話をさせるという、優れたインタビューアーぶりを発揮したのだ。

論争はアメリカにも舞台を移して行われている

 加えて、日系アメリカ人であり、上智大学の大学院生(取材当時)という監督の立ち位置も、取材に有利に働いたと思われる。いま、慰安婦論争は、日韓の間のみならず、アメリカにも舞台を移して行われている。左右両陣営ともが、「自分たちの主張がアメリカで認められたい」という思いを持っていたのだろう。だからこそ、監督に対して極めて饒舌に語ったのだ。

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©NO MAN PRODUCTIONS LLC

 デザキ監督自身、映画の公式プログラムのインタビューでこう答えている。「ある意味、論争の場は私の頭の中にあったと言えるでしょう。否定論者と慰安婦を擁護する側の双方が、自分たちの主張が正しいと私を説得しようとしていましたから」。

 そう、彼らは監督を説得しようとするあまり、しゃべり過ぎたのだ。だが、「論争は私の頭の中にあった」のだから、彼らの発言は、監督の解釈によって「構成・編集」されていく。そしてこの映画の最大の特徴は、「構成・編集」の巧みさだ。

 日韓米30人以上の論客による、対立する主張を交互にぶつけさせるスピーディーな展開に、時折差し込まれるアーカイブ映像、そして監督自身による切れ味の良い簡潔なナレーション。言葉の情報量が多く、ある程度以上の知識がないとついていけないかも知れない、と思わせる箇所もあるが、ギリギリのところで観る側の興味を失わせないような巧みな構成に唸らされる。その構成の巧みさによって、映画を観ている我々が論争の場に立ち会っているような感覚に襲われるのだ。

一点だけ、「そうはしない方が良かったのに」と感じたこと

 現実には、彼らが一堂に会することはない。なぜなら、彼らはお互いを嫌い合っているので、同じテーブルに着くことはないからだ。同じテーブルに着くことがない人たちを、映画という一つのテーブルに乗せたことが、この映画の成功の最大の要因だ。

 そして、前半は慰安婦論争が中心の構成だが、中盤からは、教科書問題やNHKの番組改変問題、戦後の日米関係、さらに日本会議安倍内閣の関係にまで論点が広がり、慰安婦問題と根っこを同じくすると思われる、いまの日本社会に横たわる重要なテーマを投げかけるのだ。そしてラストには、監督自身のナレーションによって「アメリカ人として日本人に警告したい」とメッセージが語られる。その内容についてここでは書かないが、長い時間(調査から公開まで3年)をかけていきついたこの問題への、そして日本社会への、監督の思いが込められている。

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©NO MAN PRODUCTIONS LLC

 私は、公開後に取材相手から否定的なリアクションも予想された(そして実際にあった)中で、この映画を完成させ公開までこぎつけたデザキ監督の手腕と勇気に敬意を表したい。だが一点だけ、「そうはしない方が良かったのに」と感じたことがあった。それは、保守派の論客たちを「歴史修正主義者」と呼んだことだ。

デザキ監督の原動力はなんだったのか

歴史修正主義」という言葉は、本来は新史料の発見などによって、歴史の新しい解釈を試みる姿勢を表すものだが、現在は「ナチ・ガス室はなかった」などの、でっち上げの主張をして歴史を改変しようとすることを指す場合が多く、言葉自体に否定的な意味がつきまとう。

 監督が取材の過程を経てその言葉に行きついた、ということなら理解できるのだが、映画のかなり早い段階で彼らを「歴史修正主義者」と呼んだことで、監督の立ち位置が完全な中道ではなく左側にいることが見えてしまうのが、対立する主張を縦横無尽に語らせるというこの斬新な映画にとっては、もったいないと思ってしまった。

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©NO MAN PRODUCTIONS LLC

 一人称で社会や政治の問題を描くという意味では、突撃取材で知られるマイケル・ムーア監督の作品も同様だ。だが彼の映画は、監督の政治的な主張をはっきり打ち出したもので、内容的には結論ありきのものが多い。一方『主戦場』は、「対立する意見を公平に切り取って、観た人に委ねる」という、ムーア監督とは異なる手法で政治問題を扱っているだけに、この「歴史修正主義者」という言葉の使い方だけが、残念に思った。そう言いたくなるほど、保守派の主張が、あまりにも杜撰な論理によって構築されていることは理解できるのだが……。

 それにしても、デザキ監督を、このような野心的な試みに走らせた原動力は、なんだったのか。私は監督の内なる強い正義感だと思う。日系アメリカ人二世として、子どもの頃からアメリカで、アジア人蔑視にさらされてきたというデザキ監督。マイノリティーの人々が沈黙を強いられ、苦しんでいる様を見過ごせない、という正義感が、このすさまじい映画を作らせたのだ。

INFORMATION
『主戦場』
原題:SHUSENJO: The Main Battleground of The Comfort Women Issue

2018年/アメリカ合衆国/DCP/122分/配給:東風

4月20日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて緊急公開ほか全国順次公開中。
 
WEBサイト: http://shusenjo.jp

https://bunshun.jp/articles/-/12302

*1:作品中の各人の発言なども収録され、解説も充実した、なかなかよいパンフレットです。