【清州の風景】忠魂塔前の「天地神壇」碑

清州「天地神壇」碑を巡る街歩きの最後を飾るのは、清州の忠魂塔です。

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忠北大学校から忠魂塔までは、東門を出て2キロ弱、幹線道路から住宅街に分け入って歩きます。このあたりは丘陵地になっていて少し高低差があります。

ま、地図アプリを駆使して頑張ってください。同じことをする暇な人がいるか定かではありませんが。

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途中は特に何もないので、ゴールから始めます。これです。図書館や教会が並ぶ高台のさらに一段高まったところに、清州の忠魂塔はあります。

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「天地神壇」碑は、忠魂塔のある場所に上がる階段の脇にあります。もともとはここに、忠北大学校にある古い「天地神壇」碑があったのだと思われます。今ここにあるのは言ってみれば「二代目」ということになります。

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碑の手前にある煤けた丸いヤツは、交通標識でもなければ消火栓の場所を示しているのでもなく、「社稷イヤギキル(Sajik Story Road)」と名づけられたテーマロードの説明板で、「天地神壇」についての解説が書いてあります。曰く、「ここには日帝時代、日清日露戦争で戦死した日本軍人のために建立された神壇があり、以前は社稷壇と混同してこの場所で祭祀を行なっていたが、正しい歴史を知らせるために保存する」。

ここで言及されている「日本軍戦死者のための神壇」というのがどのようなものなのか、ちょっとわかりません。ただ、もしかしたら、ここに忠魂塔が建てられたことと関連があるのかもしれません。それと「天地神壇」碑との関連もないことはないと思われますが、いま手持ちの材料だけでは何とも言い難いところです。

せっかくですから、忠魂塔の方も見ときましょう。

これ、階段の上は意外と広いです。顕忠日の式典などを行なうのにこれだけの面積があれば十分でしょう。

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忠魂塔自体もなかなか立派です。

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この塔のデザインがどこからきているのかはわかりませんけど、日本にも残る忠霊塔と酷似していることは指摘してもよいかと思います。両方見てきた目からすると、影響がないとは言えないような気がするんですよねえ。

例えばこのへん。

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清州の忠魂塔は1955年の建立だと言いますしねえ。例えば植民地期にここに忠霊塔があったとしたら、当時の中高生以上の世代はみんなそれをよく覚えていたはずです。

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あ、ちなみに、こちらの説明板があるのは、天地神壇碑とは反対の北側の入り口付近です。

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てことで、はなはだ簡単で雑駁ではありますが、今回の清州街歩きはこれにて終了とします。