生活保守主義

よく人々は「一度生活レベルを上げると、下げることができない」という言葉を口にする。
その言葉は実感の裏付けがあって言われているのか。
私は違うと思う。
一度も「生活レベルを下げる」という経験をしたことのない人間がそういうことを断言できるのは、「みんながそう言っている」からというだけのことである。
「一度生活レベルを上げると、下げることができない」というのは資本主義市場が消費者の無意識に刷り込み続けてきた「妄想」である。
そう信じているせいで、人々は給料が減ると、アイフルやプロミスから金を借りてまで「今の生活レベル」を維持しようとする。
金を借りることを合理化できるのは、「いずれ給料が上がる」と(無根拠だとわかっていながら)信じたがっているからである。
そうやって市場における貨幣の流動性は高まり、商品取引は活性化し、その代償に人々は自己破産や夜逃げや自殺に追い込まれてゆく(同じロジックでサブプライムローンも破綻した)。
私はこれまで何度も「生活レベルを下げた」ことがある。
仕事がなくなると収入が減る。収入の内側に生活レベルを下方修正する。同じ貧しい仲間たちと相互扶助、相互支援のネットワークを構築する。
だから、私はどんなに貧乏なときも、きわめて愉快に過ごしてきた。
「今の生活レベル」などはいくらでも乱高下するものである。
そんなことで一喜一憂するのはおろかなことだ。
自分の今の収入で賄える生活をする。
それが生きる基本である。
「ありもの」を使いのばし、「ありもの」で「要るもの」を作り置きしておいて、いざというrainy dayに備える。
私たちはこれから窮乏の時代に入る。
「右肩上がり以外の生存戦略は存在しない」と信じている人間が生き残ることのきわめて困難な時代に入る。

http://blog.tatsuru.com/2008/11/18_1033.php

引用元の本来の文脈とは関係ないことが連想されたので、クリップしておく。
それは、韓国における統一問題と生活保守主義との関係である。
生活保守主義が思考の上での自明の前提である限り、南北朝鮮の統一問題に対しては消極的な答えしか出てこない。
けれども、その生活保守主義そのものが自明性を失うとしたら…?
それが望ましいとか望ましくないとか言っているわけではない。仮にそのような問いを設定すると、そこにはどのような可能性を見ることができるのだろうか。そう問うてみたくなったのである。
問いの宛て先は…とりあえずは、論理的思考のできる「進歩派左翼」の知識人あたりだな。教条的な人間は避けたほうがよかろう。