大邱から釜山へ高速バスで向かう。東大邱の高速バスターミナルから釜山まで、優等バスで8900ウォン、時間にして1時間強といったところである。
一日で駆け巡ったところを簡単に紹介していこう。
まず、朝鮮戦争前後の釜山を象徴する「40階段」。フェリーターミナルや地下鉄中央洞駅から程近いところに位置する。
現在見られるこれは、当時の場所から少し南に再現されたものらしいが、少し北に歩いていくと、変わった造形の階段と、40階段に関する常設展示を行なっている「40階段文化館」とがある。住民センターに併設された無料展示であるが、当時の生活の悲哀を伝える写真や模型などはなかなか興味深く、見甲斐がある。
次に、かつて龍頭山神社があったところ、現在の龍頭山公園*1の裏手にある釜山近代歴史館。この建物自体がもともと東洋拓殖株式会社釜山支店であり、戦後はアメリカ文化館として1982年に起きた放火事件の現場ともなった。現在は返還され、釜山の近代史を後世に伝えようとする歴史博物館となっている。そのような経緯から、「日帝の釜山収奪」や「近現代韓米関係」といったコーナーに力が入っているのだが、そこでは植民地時代の地図や写真の資料展示がかなり豊富になされており、無料ではもったいないと感じるほどである。
それから、東莱の温泉地から少し北に立地する釜山大学校。現在その正門あたりは大規模商業施設や地下駐車場の工事などでわやくちゃになっている。
ここにいわゆる「釜馬事態」、朴正熙政権の終焉の始まりとなった事件を記念する碑が2基ばかり建立されている。
一つはその名もズバリ「10.16記念館」という講堂の前にある。
もう一つは、第二図書館の前に立っている。
釜山大学校としては、4.19における高麗大学校、5.18における全南大学校の位置に自らを位置づけているのだと思われる。しかし、現場に立ってみての実感として、それらには遠く及んでいない。別の言い方をすれば、記念碑に対しての「作りっぱなし」感を強く覚えるのである。
それは、死者が出ていないという身も蓋もない理由によるものなのか、その運動自体が政権の終焉を直接的にもたらしたわけではないという理由によるものか。私にもよくわからない。
ただそれは、いろいろな意味で「釜山」という都市の近代史における悲哀と苦悩の反映なのではないかという気がしている。それについてはまた改めて。