韓国でよく見かける光景

済州市内の東方、国立済州博物館の裏手あたりの山腹に、比較的大きな搭が3基ほどがある。博物館前のメインストリートの北側を見ていると必ず目に入ってくる。

一つは「医女班主 金萬徳義人墓」。金萬徳についてはこちらの説明をどうぞ。

金萬徳とは

 金萬徳(1739−1812)は朝鮮時代の済州出身の医女。私財を投げ打って、凶作で飢餓に陥った済州道民を救出した人物として知られている。朝鮮・英祖王時代、萬徳は父・金應悦と母・高氏の間に2男1女の長女として済州道旧左面東福里で生まれた。

 不幸にも幼くして両親と死別し、退妓・月中仙に預けられて妓生となる。妓生という賤民(最下層の身分)の待遇に苦しんだ萬徳は、官庁で妓生名簿から削除することを要請。しかし、拒絶される。それでも萬徳は意志を曲げず、牧師・申光翼と判官(朝鮮時代の官吏)・韓有枢を訪ねて嘆願した。そこで萬徳は、人々の役に立つことを約束。これによって20歳で妓生名簿から外れたが、身分制の当時としては非常に難しいことであった。

 その後、萬徳は客主(他人の商品の委託販売をしたり、商人を宿泊させる仕事)で、商人としての才能を開花させる。萬徳は済州の特産物である馬毛、ワカメ、鯒、真珠や、妓生時代の経験を活かして両班層の婦女に織物、装身具、化粧品を供給。済州で巨大な商人に成長し、富を築き上げた。

 1792年から95年にかけて済州道は大凶作に見舞われる。調停からの救済米を積んだ船が沈没するや、全島民が餓死の危機に瀕した。これをみた萬徳は全財産を投げ打って本土から500石のコメを買い上げ、飢餓状態の済州道民の多くの命を救った。一説には当時の道民の3分の1が救われたという。

 この功績は朝廷で認められることとなる。正祖王は萬徳に願いを聞くと、萬徳は「海を渡って王様のいる漢陽(現在のソウル)の宮廷に行き、金剛山を見ること」と話した。正祖王はこれを聞き入れ、内医院の「医女班首」という官位を与えるとともに本土で最高の待遇を与えた。当時の法令では済州の女性が生きて島を離れることはできなかったが、萬徳は済州女性として初めて本土に渡ったのである。

http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2007/200_1.php

どうやら近日、この人物の生涯がドラマ化されるとのこと。碑の前には比較的新しい「萬徳館」という名の記念館も設けられている。

そのお隣に位置するのが、「済州義兵闘争記念塔」。


さらにその隣が、「殉国志士 趙鳳鎬記念碑」。

どれもこれも同じように見えるかもしれないが、それも無理はない。いずれも同時期、1977年に建てられたものである。しかも、コンクリート作りで白ペンキ塗りの構造、朴正煕の揮毫など、この手の特徴を持ち、製作時期を同じくする記念碑は、その気になれば韓国内でしばしば見つけることができる。

漢拏山を対面に望むこれら記念碑群のたたずまいは、朴正煕政権末期の雰囲気と現在との間を考えるにあたって、一つのきっかけとなってくれる。