境界線の政治学

 保守の本質とは具体的な人間関係の中で、葛藤(かっとう)に耐えながら合意を形成していくこと。本来、熱狂とは遠い存在なんです。

http://mytown.asahi.com/ishikawa/news.php?k_id=18000001004300005

境界線の向こう側に「敵」を設定して、あらゆる非をそちらに追いやる。

(「敵」は、あらかじめ存在するのではない。私たちがそこに作り出すのだ。)

そうすることで、自らは安全地帯に身を置いて、後ろめたさもなく、遠慮も躊躇もなく、その「敵」を叩きのめす。

イラつく現状の打開への願望を、「敵」の破壊衝動へと結びつけて、嗜虐的な欲求を満足させる。

(そういう憂さ晴らしをしておいて、自らが無傷のままで済むはずがない。が、そのことは考慮の外に置かれる。)


破壊願望が人々の心をとらえてしまっていると、嗜虐的破壊者は革命的改革者と映る。

この流れを正面から食い止めるのは、なかなか至難な業だ。

(どこぞのエラそうな知事への喝采と、そのケンカの売り先から漂ってくるウンザリ具合とを見れば、そのことはよくわかる。)


確かに、そこでは明らかに「保守」は流行りではない。今はまさに「革新」全盛時代。