ポスコロだのカルスタだの
私は、文章を書くのが下手です。私が書いたものがわかりにくいのは単純に、わかりやすくすっきりとしたものを書けないからです。「書かない」のではなく、「書けない」んですよ。
ところが、そこを深読みしてくれる方が、時におられます。例えば、ポスコロだのカルスタだのに同定し、そうした定型に回収してくれる労をとっていただけることが、過去にはあったりしました。
でも実は、ああいう人たちにはぜんぜんついていけてないんですよ。私的には。
内田樹センセの下記のブログ記事がちょうどピッタリきますけど、私は、「きわめて複雑な知的ハイテクノロジー」を駆使しているわけでも(したいわけでも)ないですし、「わざと」「何を書いているのかぜんぜんわからないテクスト」を書こうとしているわけでもありません。
だから、私たちの深層には「なんだかわけのわからないもの」に遭遇したら、とりあえず満腔の関心と敬意を以て接すべしという類的な命令がインプリントされているのである。
それは生存戦略として正しいのである。
そして、ポストモダニストたちは私たちに深々と刻印されたこの類的反応を巧みに利用した。
ラカンやフーコーやデリダのような先駆者たちは自覚的に「わけのわからない」文体を選択したのだが、それに後続するエピゴーネンたちは必ずしもそうではなかった。
彼らの書きものがどんどんわかりにくくなったのは、あらゆる既存の「物語」を棄て、いかなる定型にも回収されずに高速で疾走し続けるノマド的な運動態こそが「知のあらまほしき様態」としてリコメンドされたからである。
ポストモダン知識人たちは、読んで「わかる」というのは、既知に同定され、定型に回収されることであるから、読んでも「わからない」方が書きものとしては良質なのだと考えた。
推論としては合理的である。
そして、ついに書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点にまで至って、唐突にポストモダンの時代は終わった。
もし、いまマルクスが再び読まれ始めているというのがほんとうだとしたら、それは「『大きな物語の終焉』という物語」が終焉したということではないかと私は思う。
http://blog.tatsuru.com/2010/09/29_1634.php
私が書きたいものというのは、例えばこんなのです。
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