いま論文を書いている人へ

中間部分も含めて、執筆の合間にでも再読三読してくだされば幸いです。

書いてしかるべき立場にありながらまだ書いていない人も、まあ読んでみてください。「論文を書くというのはどういうことか」のヒントになるかも知れません。もしかしたら。

卒論を読んでコメントをつけて返すという仕事をしている。
疲れる。
ほとんど同じことをどの学生についても書いているからである。
「出典の書誌情報を明記しなさい」
この二年間、ことあるごとにゼミで言っているのだが、ほとんどの学生はそのほんとうの意味は理解していない。
それをたぶん「ズルをしてはいけません」という警告のように聴いているのだろうと思う。
カンニングするな」とか「授業中私語をするな」とか「教室でカップ麺を食べるな」というような注意と同列のものだと、たぶん思っている。
しているところを見つかったら叱られるけれど、見つからなければどうってことない、とたぶん思っている。
それでいったい誰が困るというのよ、とたぶん思っている(キムチ味のラーメン臭が教室に漂っていると、次の授業に教室を使うものは苦しむぞ)。

コピペはダメだよ、について (内田樹の研究室)

自分自身の作物ができるだけ早く死ぬことを、できるだけ少人数にしか読まれないことを願うという倒錯が剽窃論文の本質的瑕疵である。
それは自分自身に対する呪いである。
剽窃者は自分自身の知的なアクティヴィティが質の悪いものであることを切望するようになる。
何度も書いていることだが、自分が自分にかけた呪いを解除することはきわめてむずかしい。
出典についてはきちんと書誌情報を明記し、「贈り物をありがとう」と記載せよと私がうるさく言うのは、そのような気遣いをしたものは必ず読者への「贈り物」になるようなものを書こうと願うからである。
自分の作物ができるだけ長く読み継がれ、できるだけ多くの読者を得ることを願うようになるからである。
その願いが論文のクオリティを押し上げる。
アカデミアの目的は、学生たちに自分の知的なポテンシャルに気づかせ、それを高め、活性化する方途を発見させることである。
そのためには何を措いても「贈与されたものを次の受け取り手にパスする」というふるまいを会得してもらわねばならない。
パッサーとなること、それが人間の知的なパフォーマンスを最大化させる。
「ありがとう」という言葉をまず口にすること。
それは倫理のレベルの話ではない。
知性の機能にかかわる、ほとんどメカニカルな話なのだ。
その理路を教師は卒業の間際まで、寸暇を惜しんで、教え続けなければならない。

http://blog.tatsuru.com/2011/01/09_1554.php