慰安所管理人の日記:毎日新聞でも

朝鮮日報で出たと思ったら、毎日新聞でもオンラインで記事が出ましたね。

慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる
毎日新聞 2013年08月07日 07時00分(最終更新 08月07日 07時56分)


昭南博物館のスタンプが押された日記

 【ソウル澤田克己、大貫智子】第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポール慰安所で働き、その様子をつづった朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。男性は、1942年に釜山港を出発した「第4次慰安団」に参加し、44年末に朝鮮へ戻った。慰安所従業員の日記の発見は、日韓で初めて。旧日本軍による従軍慰安婦問題では、数十年たってからの証言が多いが、現場にいた第三者による記録は、冷静な議論をする上で貴重な資料と言える。

 朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授が見つけた。約10年前にソウル近郊の博物館が古書店で日記などの資料を入手。これを安名誉教授が最近精査し分かった。堀和生京大教授と木村幹神戸大教授が、日本語訳の作成を進めている。

 日記は、朝鮮半島南東部・慶尚南道キョンサンナムド)出身の男性が、ビルマシンガポール慰安所で働いた43、44年に記した。漢字やカタカナ、ハングルで書かれている。

 男性は05年生まれで79年に死去。22年から57年までの日記が残る。ただ、朝鮮で慰安婦募集に携わった可能性のある42年を含む8年分は、見つからなかった。

 男性は、43年7月10日に「昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。44年4月6日には「一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が(市場で)働いていた」と書いた。

 ビルマで捕らえた慰安所経営者を米軍人が尋問し45年11月に作成した調査報告書には、42年7月10日に慰安婦703人と業者約90人が釜山港を出港したとの記録がある。釜山出港の日付が一致し、日記の正確性を裏付ける。

 安名誉教授は「米軍の記録が第4次慰安団を指すのは確実だ。慰安団の存在は、組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められたことを示している」と指摘する。ただ、安名誉教授は、韓国で一般的な「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」との見方を示した。

http://mainichi.jp/select/news/20130807k0000m040125000c.html

慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落
毎日新聞 2013年08月07日 東京朝刊


ノートにびっしりと書かれた日記。1943年1月の記載

 【ソウル澤田克己】ビルマ(現ミャンマー)とシンガポール慰安所で働き、日記を残した朝鮮人男性は、1942年夏から44年末までの東南アジア滞在中に慰安所3カ所の帳場で働いた。日記には、慰安婦の管理や、軍や役所との折衝といった日常生活が淡々とつづられている。

 慰安所が旧日本軍の管理下にあったことは、軍の文書でも確認されている。日記にも「慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた」(43年1月1日)や、連隊本部などから定期的に避妊具を受け取ったりしたという記述が、頻繁に見られる。

 軍から移転命令があり「慰安婦一同は絶対反対」(同3月10日)したが、結局は「司令部命令に勝てず移すことになった」(同14日)などの記述から、軍との密接な関係をうかがわせる。

 日記の著者は、ビルマ西部の要衝アキャブ(現シットウェ)からラングーン(現ヤンゴン)へ移った。その際、軍から宿舎の提供を受け「火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って」(同年1月21日)もいる。

 日記を発見した安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授は「軍属に準じる扱いを受けていたようだ」と話す。

 日記からは、前線であるビルマと後方地域のシンガポールとの違いもうかがえる。シンガポールでの日記には、慰安婦の「廃業」や「帰国」に関する記述が多く出てくるが、ビルマではそうした記述は見られない。

 著者はシンガポール在住時の44年10月25日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という。

 ビルマでは既に日本軍が敗走を重ねていた時期で、連合軍の尋問調書などによると、多くの慰安婦が巻き添えで犠牲になっていた。

 一方、日本軍は、定期的に慰安婦を検診し、性病にかかった場合は入院させた。日記にも「検査不合格者が6人も入院した」(44年5月12日)などという記述が多く見られる。「妊娠7カ月なので、休業届を提出した」(同7月4日)というケースや、慰安婦の出産(同9月5日)もあった。

 日記には、朝鮮における慰安婦募集に関する記述はない。日韓両国では朝鮮半島慰安婦を集めるときに強制連行があったかどうかに強い関心が持たれているだけに、安名誉教授は「この時期の日記が欠落しているのは残念だ」と話す。

 ただ、米外交問題評議会のジェイムス・リンゼイ上級副会長は毎日新聞に対し、米国で慰安婦問題への批判が強い理由について「女性への性暴力が大きな政治的関心を呼ぶようになった世界的な流れが背景にある」と指摘。強制連行の有無は大きな論点ではなく、慰安婦という制度そのものへの向き合い方が問題視されているとの認識を示した。


 ■ことば

 ◇軍票と戦時中の郵便貯金

 軍票は「軍用手票」の略語で、軍の物資調達などのために一時的に使われる通貨。日本も第二次大戦中に約45億円分を発行したが、終戦後に無価値となった。戦時中はビルマ(現ミャンマー)などの戦地に野戦郵便局、朝鮮半島などの植民地や占領地に外地郵便局が設けられ、軍人や現地住民らが貯金に利用した。

http://mainichi.jp/graph/2013/08/07/20130807ddm007040157000c/001.html

慰安所従業員:日記発見 識者に聞く
毎日新聞 2013年08月07日 東京朝刊

 ◇第三者が記録、客観性高く−−木村幹(きむら・かん)神戸大教授

 −−この日記がなぜ貴重なのですか?

 ◆「第三者」の記録だから客観性が高い。著者は1979年に死去しており、80年代後半以降の慰安婦問題への関心の高まりを受けて改ざんされた可能性も極めて低く、当時の実態をよく描写していると考えられる。

 −−日記に出る慰安婦の姿の評価は?

 ◆戦時下で「極端に統制された疑似公娼(こうしょう)制度の従事者」という印象だ。多くの女性は経済的理由から慰安婦になったものの、移動や廃業の自由は厳しく制限された。他の民間人も自由を制限されたが、日記の著者と比べれば慰安婦に対する制限が大きいことは明白で、同一視はできない。

 −−貯金や送金に関する評価は?

 ◆慰安婦が額面上は多くの収入を得て、故郷へ送金することもあったことは明確に裏付けられた。ただし、東南アジアで流通したのはインフレで価値が急落する軍票だ。東南アジアからの送金には引き出し制限があったという研究もある。軍事郵便貯金は韓国人の場合、最終的には無価値になった。慰安婦が現場で経済的対価を得ていたことと、対価を享受したかは切り離して考えるべきだ。

 −−慰安婦問題で注意点は?

 ◆当時の統治、経済システムといった大きな状況の中で慰安婦の置かれた人権状況を考えることが重要だ。強制連行の有無のような部分的な分析だけでは不足している。【聞き手・澤田克己】


 ◇募集、「広義の強制」示す−−安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授

 −−日記から分かることは何ですか?

 ◆慰安婦703人の「第4次慰安団」が組織されていたことだ。慰安婦募集が、日本政府の政策に基づく戦時動員の一環だったことを示している。「広義の強制」だといえる。

 −−強制連行?

 ◆「狭義の強制」と言われる、拉致のようなものはなかっただろう。業者をサポートする行政組織がしっかりしている朝鮮では強制連行の必要はないし、強制連行は(社会的な騒ぎを起こして)コストが高くなる。ただ、業者による乱暴な行為はあったはずだし、軍服のような服を着た業者が「軍人」と誤解された可能性はある。

 −−どんな女性たちだったのでしょう?

 ◆米軍調書によると、大部分は教育のない貧しい女性で、売春経験者は一部だけだ。親に売られた人身売買も多かっただろう。

 −−戦場での位置づけは?

 ◆ビルマのような最前線では、前借り金を返済しても簡単に廃業できなかった。所属部隊の管理を受けており、旧日本軍の編成の末端に位置づけられていた。「性的奴隷状態」にあったと言える。

 −−慰安婦問題に取り組んだ契機は?

 ◆1990年代初め、慰安婦支援団体が実施する調査活動などを手伝った。だが、「強制連行」と最初から決めつけて証言集めをするような形だったので、運動からは手を引いた。【聞き手・澤田克己、大貫智子】

http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040182000c.html
http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040182000c2.html