東京護国寺・音羽陸軍埋葬地

さて、表参道に行かずにどこで降りたかといえば、有楽町線に乗って護国寺駅で降りたんですね。目指すのは日本女子大でもお茶の水女子大でもなく、そのものずばりの護国寺です。

音羽護国寺」と言えば、かつては隣接して広大な陸軍墓地が広がっていたと聞きます。第一師団・近衛師団の駐屯した東京ですから、軍人墓地も広くて当然なわけですが、現在はごく小さい場所がその名残をとどめているだけだということで、その現状を見に足を運んだ次第です。

今回の訪問のお供はこちらのページ。そこの指示通りに、本堂までまっすぐ上り、その左脇から広大な墓地をまっすぐ進んで、突き当りを左に曲がって少し行くと、塀とフェンスで仕切られたその場所が見えてきます。

02、東京・音羽陸軍墓地(2002年10月下旬訪問)




入口は来た道からぐるっと回った南側にあります。鉄製の門がありますが、鍵はかかっていませんでしたので、自由に入ることができます。

細かい内容については、他のサイトでも書かれていますし、この墓地の形成過程や実態の分析について詳細に論じた原田敬一・佛教大学教授の論文もネット上で読むことができますので、私がくだくだと御託を並べる必要はないでしょう。原田論文によると、ここに来るまでに通ってきた墓地も、かつてはすべて陸軍埋葬地であり、その面積は1万坪余りであったとのことです。

音羽陸軍埋葬地 - 依代之譜

鎮魂の霊地/音羽陸軍埋葬地

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf

ここでは、御託の代わりに、その場所で撮った写真を、資料的に並べておくとします。





敷地奥に本堂のように置かれた「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」の左右には、「陸軍軍人合葬之墓」が配置されています。明治39(1906)年建立のものは日露戦争、昭和7(1932)年建立のものは満洲事変の戦没者を対象としたものです。本来であれば、これ以外の合葬墓碑もあってしかるべきだと思われるのですが、現存はしていないようです。



敷地の周辺部には、様々な大きさの墓碑が並んでいます。かつては2400人余りが葬られたと言われる音羽陸軍墓地ですが、ここに現存する墓石は40基にとどまります。

この40基がどのように「選抜」されて残ったのか、その経緯はよくわかりません。この仕切らせた狭い区画にたまたま葬られていたものが残ったのか、それとも他の場所に葬られていたのを移したものもあるのか…。個人的な印象では、その両方があるように思います。

また素材的に見ると、陸軍墓地ではよく見られる砂岩製の古い墓碑もあれば、後に建て直したと思われる比較的新しい墓碑もあって、それらが混在しています。





残っていないエリアがあまりに広く、「東京の軍人墓地」としての往時を想像するのはなかなか難しいのですが、周囲の跡地は今でも一般の墓地として使われています。隣接する豊島岡墓地を合わせると、かなりの面積です。

原田論文を読みながら、もう一度想像力を働かせてみたいと思います。