【ソウルの風景】楊花津外国人宣教師墓苑

こちらの続きです。

【ソウルの風景】清凉里588からソウル市立大学校まで歩く。

清凉里駅から、少し長めの移動を経て降り立ったのが、合井駅。どのルートで行ったかもう覚えていませんが、往十里乗り換え(中央線→2号線)だったかな…?

この駅から漢江方面へ少し歩くと、楊花津外国人宣教師墓苑、いわゆるソウル外国人墓地が見えてきます。ここにはまだ来たことがなかったので、顕忠院に始まった元日のソウル歩きの締めくくりに、訪れてみました。



http://www.yanghwajin.net/v2/index.html

この墓地の沿革については、事前にこちらなどを参照しました。

ソウル外国人墓地の沿革
A Short history of Seoul Foreigners Cemetry at Yaanghwajin
 名称 ソウル外国人墓地公園
 所在地 ソウル市麻浦区合井洞145−9
 設立年月日 1893年10月24日
 面積 13,224平方メートル(約4,000坪)
 墓碑数 約500基
 埋葬者 400名 
 最初の埋葬者 J.W.Heron 1856−1890 (米) 米国長老派教会宣教師(H区15番)
 交通 地下鉄2号線ないし6号線 合井駅(Hapjeong St.)下車 7番出口

沿革
 韓国における外国人埋葬地は最初仁川(Chemulpo)に設立された。仁川(済物浦)が条約港(Treaty Port)として開港されたのは1883年1月1日のことで最初の移住者は日本人と中国人であった。朝米通商条約締結後、最初のアメリカ人として来朝したのは長崎からやって来たアメリカ人貿易業者で到着後まもなくの同年7月10日仁川において発病。埋葬者第1号となった。

 1890年7月16日アメリカ人宣教師J.W.へロンが来朝5年目で病死。真夏のことでもあり仁川まで遺骸の搬送は困難であった。同じ宣教師であり、のち外交官に転じたH.N.アレンの尽力でようやく漢河沿岸の楊花津の現在地に外国人専用の埋葬地の使用が許可されるに至った。1790年7月29日のことである。(なお、墓地の案内板の説明によれば1893年10月14日とある。)第二次世界大戦以前はアメリカ、ロシア、フランス、イギリスおよびドイツの五ケ国公使館の共同管理によったが朝鮮事変以来ソウル外国人連合教会(Seoul Union Church)が墓地管理委員を選出し予算を計上・管理していている。仁川外国人墓地も同様である。

 1978年ソウルの都市計画(第二ハンガン橋の進入路および地下鉄2号線の乗り入れ工事のため大部分の墓域がかかり、補償問題の解決のため土地台帳などの点検の結果、従来未登録で使用していた事実が判明した。以来、五ケ年の年月をかけて所有権取得の努力を続けたが外国人の土地所有は法律で禁止されていて1981年5月25日政府から使用権を与えられて終結した。さらに、1985年3月「ソウル外国人墓地会」が結成されその地域一帯を外国人墓地公園と定め永久に管理運営されることとなった。墓地公園内に宣教記念塔が建立され墓地を財団法人「韓国キリスト100周年記念事業協議会」に贈呈された。

http://www.geocities.co.jp/rainichi20051/Other_Countries/AShortHistoryOfSeoulForeigners.doc

楊花津外国人宣教師墓地(ヤンファジン・ウェグギン・ソンギョサ・ミョジ) - Visit Seoul

西日は照りつけているものの、日没に向けてしんしんと冷え込む夕刻は、ゆっくり見て回るのに適した時間帯とは言えず、それなりの広さに様々な墓碑の立つ墓域を歩き回りながら、時折カメラを構えるのが精一杯でした。








とにかく、どんどん寒くなってきたので、隣接する切頭山殉教聖地は入り口だけちらっと覗いて、それ以上の見学は断念しました。朝鮮半島と西洋近代との邂逅を偲ばせる場所ですし、もっといい季節、クソ寒い冬でもクソ暑い夏でもない頃に、またちゃんと訪れることを期して、帰途につきました。





切頭山 - ソウルナビ
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