2.26事件をめぐる2本の新聞記事

たまたま見かけたに過ぎませんが、それがちょうどそれぞれの立場から遺族の思いを伝える記事だったので、並べてクリップしておきたくなりました。

【社会】二・二六事件で首相守り29歳巡査殉職 それでも戦争…「悔しい」
2016年2月25日 朝刊


二・二六事件岡田啓介首相(当時)を守り、殉職した清水与四郎巡査の墓に花を供える親族の榎本芳江さん(左)と榎本芳枝さん=東京都葛飾区新宿の浄心寺

◆親族や後輩警官 語り継ぐ

 テロの凶行から、命をかけて首相を守った一人の警察官がいた。二・二六事件首相官邸を警備し、二十九歳で殉職した清水与四郎巡査。だが、守ったはずの政府は事件を境に戦争への道を突き進む。あの死はいったい何だったのか−。事件から八十年、複雑な思いを抱えながら親族や後輩警察官たちが記憶を語り継いでいる。(酒井翔平、土門哲雄)

 東京都葛飾区の浄心寺。入り口のすぐ左手にあるのが清水巡査の墓だ。二・二六事件での襲撃から救われた岡田啓介首相が清水巡査の死を悼み、事件の直後の一九三六年六月に建てた。寺には、もともと清水家一族の墓があった。

 清水巡査の妹よねさんの長女榎本芳枝さん(66)と、三男の妻、芳江さん(67)が墓を守っている。よねさんは三年前に九十九歳で他界、三男も故人となった。今は寺の近所に住む二人が中心となり、お墓をきれいに保つ。芳枝さんは「正義感が強く、真面目で勤勉な人と聞いた」と母から教わった伯父の人柄を話す。

 警視庁史などによると、清水巡査は首相官邸裏門の警備をしていた。武装した反乱部隊が裏門に近づくのを見つけ、非常口の外に立って様子を見ていた。非常口に近づく部隊に気付き、寝室から避難してきた岡田首相を引き留めた。直後に応戦し、自分は十数発の銃弾を受けて雪の上に倒れる。そうやって首相が難を逃れるまでの時間を稼いだ。

 よねさんの長男、朔雄(さくお)さん(80)=静岡県袋井市=は、事件の三週間前に生まれた。「休みの日に顔を見に来てくれるはずだったが、あんなことになってしまって…」

 軍部の暴走から命を賭して首相を守った後、日本は戦争への道を突き進んだ歴史が悔しい。

 伯父の死に意味があったのか。そんな考えが頭をよぎることもある。「あんな時代だから仕方がないかもしれないが、戦争への流れに歯止めがかからなかったのは残念だ。生き残った岡田首相がなんとかして、止めていてくれればな」。それでも「伯父の死は無駄ではなかった」と思いたい。

 清水巡査の血で染まった首相官邸の芝を植えたとされるプランターが、警視庁の警護課長室の窓辺にある。官邸から浄心寺に植え替えられた芝を一九九八年に譲り受けた。課員が毎朝水を与え大切にしている。「物言わぬ証人」として、先輩が後輩にこの芝のいわれを伝えている。

 関岡(せきおか)明警護課長は「先輩の遺訓、姿を学ばなければいけないという思いで見守っている」。テロの脅威が増す中、今年は伊勢志摩サミットが開かれる。二〇二〇年には東京五輪もある。「偉大な先輩の名を汚してはいけないという気持ちで、任務にあたっていきたい」

 二・二六事件では五人の警察官が殉職した。清水巡査は最年少だった。毎年、二月二十六日に弥生慰霊堂千代田区)で開かれている慰霊祭には今年、警護課長ら約七十人が出席する。浄心寺の墓には課員らの代表が参拝する。

 二・二六事件 国家改造を訴えた陸軍の青年将校らによる反乱事件。1936年2月26日未明、約1500人の部隊が首相官邸などを襲撃し、高橋是清蔵相らを殺害した。岡田啓介首相は難を逃れたが、直後に首相を辞任した。3日後に鎮圧。その後は軍部と対立するような政治は行われにくくなった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016022502000134.html

2・26事件80年 地元の星、一転「国賊」 青年将校の弟、犠牲者の慰霊に奔走
毎日新聞2016年2月26日 東京朝刊


2・26事件で反乱軍に占拠された警視庁=1936年2月26日撮影


2・26事件犠牲者の慰霊像。毎年2月26日、慰霊式が開かれる=東京都渋谷区宇田川町で

 陸軍の青年将校らが決起し、日本近現代史上最大のクーデター未遂となった「2・26事件」から80年の26日、東京都内2カ所で遺族らによる法要などが営まれる。

都内2カ所、きょう法要

 同日午前、東京・渋谷税務署脇にある慰霊像の前で追悼式が開かれる。像は1965年、青年将校らの遺族団体「仏心会」が建立、追悼式を行ってきた。周辺はかつて陸軍刑務所で、クーデターに失敗した将校らはそこで銃殺された。また午後には東京都港区の賢崇寺(けんそうじ)で法要が開かれ、将校の一人である安田優(ゆたか)少尉の弟、善三郎さん(90)が参列する。同寺では戦前から法要が行われてきた。

 優少尉は、斎藤実内大臣渡辺錠太郎大将(教育総監)を襲撃、殺害した部隊にいた。

 熊本・天草出身で、戦前のエリートコースだった陸軍士官学校に進んだ。善三郎さんは「家族の誇りでした。帰省したとき、川にウナギを捕りに行ったりして、遊んでくれました。優しい兄でした」と振り返る。事件の3年前の33年ごろ、兄が東京に戻るとき、軍刀をもって船着き場まで見送った。それが最後の別れになった。事件後、優少尉は同志の青年将校らとともに銃殺された。

 地元期待の星が、「国賊」となってしまった。善三郎さんは「家族はつらい思いをしました」と、言葉少なに振り返る。一方で、犠牲者の慰霊に奔走してきた。渡辺大将が眠る霊園の場所を知った80年代半ばから毎年、墓に参っている。荒れていたため、整備の費用を提供したこともあった。「償いとして、犠牲になった方たちのご供養を続けたい」と話す。

 事件は36年2月26日未明、青年将校らが「昭和維新」を目ざして決起、下士官や兵およそ1500人を率いて首相や大臣、陸軍高官を殺傷し、国会議事堂や首相官邸など政治の中枢部を一時占拠したが、鎮圧された。軍法会議の結果、将校を含む19人が銃殺された。【栗原俊雄】

http://mainichi.jp/articles/20160226/ddm/012/040/061000c

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