うめきたの大坂七墓・梅田墓のこと

この話、「聞いたことないこともない」という程度の認知しかなかったのですが、単なる言い伝えやそれらしき痕跡のみならず、実際に人骨が見つかるとなると、「埋めつぶして終わり」とはいかないでしょう。きちんとした調査研究を経て記録を残し、併せて供養という観点からもしかるべき措置を取る必要があるんではないでしょうか。

大阪うめきた 梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体
毎日新聞2017年8月12日 14時00分(最終更新 8月12日 15時26分)

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発掘調査で確認された梅田墓の一角。奥に見えるのはグランフロント大阪大阪市北区で6月

 JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に江戸~明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。梅田墓は、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場するが、面影を伝えるものは残っておらず、実態はよくわかっていない。過去の工事で墓石などが出土した例はあるが、学術的な発掘調査で墓の一端が明らかになるのは初めてで、当時の大阪の都市の様相や葬送文化を知る上で貴重な発見だ。

 うめきた2期区域の再開発事業に伴い、今年2~6月、大阪市教委の指導で大阪文化財研究所が明治期の地図から墓域と推定される約3000平方メートルの一画を含む、約700平方メートルを発掘調査した。

 調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。棺桶に納められた人骨の周囲からは、とっくりのミニチュアや六文銭などの副葬品も見つかった。

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 梅田墓は江戸初期、天満周辺に点在していた墓の一部を旧曽根崎村に集め(現在の大阪駅前第1ビル周辺と推定)、都市化に伴って1680年代に調査地付近に移転したと伝わり、1900年代初めごろまで機能していたとみられる。

 調査地の北端と南端の計3カ所からは、墓域を区画した石垣も確認、北側の石垣は墓石を転用して築かれていた。墓地が造られる前の土層からは17世紀末ごろの磁器が出土した他、見つかった墓石には1674~1825年の没年が刻まれており、地誌や古地図で墓があったとされる時期と矛盾しなかった。また、南北の石垣の外側からも人骨が見つかり、墓域は従来の推定より広範囲にわたっていたことがわかった。

 調査した大阪文化財研究所の岡村勝行・東淀川調査事務所長は「江戸期の大阪では、火葬が大半だったとする史料が残されているが、土葬もかなりあったことが明らかになった。多様な埋葬形態は、時期の違いや貧富・身分の差によるものかもしれない」と話す。今後、見つかった人骨の男女比や年齢層、栄養状態などの分析を進める予定といい、謎多き墓の実態解明が期待される。【林由紀子】

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1935年発行の雑誌「上方」の表紙を飾った「七墓巡りの図」(長谷川貞信作)には、かねを打ち鳴らして練り歩く様子が描かれている

「歴史の一端解明」 古川武志・大阪市史料調査会調査員(日本近現代史

 七墓巡りには、肝試しの意味合いや、子どもの大人への通過儀礼的な一面もあったようだ。全て回ると自分の葬式は晴れるとも言われ、文学では心中の場面などで象徴的に描かれた。開発で失われる歴史の一端が発掘調査で解き明かされ、記録される意義は大きい。

https://mainichi.jp/articles/20170812/k00/00e/040/226000c

ちょっと調べてみると、過去にもこんな記事やサイトがアップされていました。

大阪七墓・梅田墓地について - 十三のいま昔を歩こう

大阪をホジクル 12.梅田墓

www.sankei.com

何でビルの中に 阪急・梅田駅にお地蔵さんのナゾ
2013/12/15

 阪急電鉄・梅田駅(大阪市北区)の改札口を出ると、線香の香りが漂ってきた。見るとお地蔵さんをまつるお堂がある。「何でこんな人通りの多いところに?」。調べてみると、今はにぎわう梅田地区だが、その昔は墓地のあるさびしい田舎だったらしい。

■全国でも珍しい北を向いた地蔵

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拝む人の姿が絶えない阪急三番街の北向地蔵尊(大阪市北区)

 お地蔵さんは「北向(きたむき)地蔵尊」という。駅の建物の1階西側、紀伊国屋書店の横にある。一般にお地蔵さんは南を向いており、名前の通り北向きなのは全国でも珍しそうだ。

 ここに落ち着くようになったのは1969年のこと。それまでは今の場所の東側、茶屋町に近かった。阪急電鉄の社内誌(69年)には「新阪急ホテルの建設により、北へ移転……さらに梅田駅拡張工事で、またホテル東側へ仮移転し…」「最終的には新駅一階のホテル寄りに遷座し、安置することに決まった」と記されてある。

 さらに遡って調べるために、地蔵尊の世話役を務める阪急三番街 北向地蔵尊奉賛会の沢真由美さんに話を聞いた。「地蔵尊は、この付近の畑から1891年に掘り出されたものです」。作者やつくられた時期は分からないが、当時の地主が世話人となってお堂を建てたと伝えられている。「梅田墓地に葬られた人を見守ってもらおうという願いが込められて北向きにまつられた」との説が有力だ。

■大阪七墓の一つ「梅田墓地」の名残

 梅田に墓地があったとは今の町並みから想像しにくい。早速、古地図をあたった。

 明治21年1888年)発行の地図を見ると、官営鉄道(国鉄、今のJR西日本大阪駅の北西部には墓地を表す「⊥」のマークが並んでいる。また大阪市設立の財団法人大阪都市協会(2007年解散)が編集した北区史(1980年発行)は「大阪駅ができた西成郡曽根崎村旧天童は、梅田千日墓地のあったところ」と記している。

 古地図と現在の地図を見比べると、JR大阪駅の北側一帯に大阪七墓の1つ「梅田墓地」があったとみられる。今の再開発地区「うめきた」周辺に相当する。阪急梅田駅のお地蔵さんは、この梅田墓地の名残とされる。

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■元は沼地→埋田(うめた)→梅田へ

 北区史には「付近一帯は、沼地を埋め立ててできていたので埋田(うめた)と呼ばれ、梅田になった」と「梅田」の由来が書いてある。昔の梅田は「大阪駅ができてからもしばらくは田んぼや野原で、駅から曽根崎新地の遊里までは、運送店や茶店が二、三軒あるだけのさびしいところであった」(北区史)。

 もう1つの疑問が浮かんだ。そんな人の少ない地域に鉄道を走らせたのはなぜか。実は1874年開業の初代大阪駅は「鉄道局」など主要施設のある堂島につくる案が有力だった。だが当時の鉄道は陸(おか)蒸気。列車が吐き出す火の粉で沿線の家が火事になると反対がおき、梅田に押しやられたという。

■1930年ごろ、関西有数の繁華街に

 それから大阪駅は建て替えられ、今の駅舎は5代目。新しくなるにつれ人も集まり、にぎわうようになる。阪急など私鉄や地下鉄の駅もでき、1930年ごろには関西有数の繁華街に発展した。

 今では高層ビルが立ち並び、今年4月には、うめきたに大型複合施設「グランフロント大阪」が開業した。再開発が進んでいる「うめきた2期」開発地区の一角に墓石やほこらが残っていたが、2010年に他のお寺に移された。お墓の名残は北向地蔵尊くらいしかない。

 サラリーマン、親子連れなど北向地蔵尊にお参りする人は絶えない。北向地蔵尊奉賛会の沢さんは「北向地蔵尊は一願地蔵尊とも呼ばれ、願いをかなえてくれます」と話す。通りかかる機会があったら、何かお願い事をしてみたらどうだろう。

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(大阪経済部 黒瀬泰斗)

日本経済新聞大阪夕刊関西View2013年12月10日付]

https://style.nikkei.com/article/DGXNASJB04022_U3A201C1AA1P00

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