阿蘇を含む熊本編のネタは前回で尽きたので、続いて鹿児島編へとまいりましょう。
鹿児島中央駅から市電で移動してまず降り立ったのは涙橋。その謂れについては現地の石碑や案内板、さらには他の人が書いたものがすでにありますので、そちらをご覧ください。
この記事抜粋にもある通り、歴史的な事情を偲ばせるのは、道路と線路が交差する脇にひっそり立つこの石碑くらいしかありません。
エコな市電は軌道もエコだった
軌道敷が鮮やかな芝生になっています鹿児島市電の乗り場へ行くと、車道に挟まれた軌道敷が芝生になっています。ヒートアイランド現象の緩和や騒音の軽減を目的に、2007年から導入されたもので、本格的に芝生にしているのは全国でも鹿児島だけだそうです。目に鮮やかな緑のじゅうたんの上を、色とりどりの電車がトコトコ走っているのが、なんとものどかです。
涙橋の全景長さ15メートルほどの涙橋は、市街地の南にある涙橋電停を降りるとすぐでした。市電が走る県道と並行する旧谷山街道が、新川を渡るところに架かっています。刑場は鹿児島城下からこの道を通って涙橋のさらに南にあったはずですが、目の前の橋は1997年に架け替えられたもので、昔の面影はありません。川岸はコンクリートで固められ、はるか下を静かに水が流れています。往時の手がかりを探すと、橋のたもとのマンション前に大きな石碑がありました。
激戦三たび
拡大涙橋血戦の碑「涙橋血戦の碑」。説明板には、涙橋は江戸時代にこの先にあった刑場へと向かう罪人と、その家族がこの橋のたもとで最後の別れをしたのが由来とあります。が、この碑そのものは、明治時代にこの場所が西南戦争の戦場であったことを伝え、ここで戦死した薩摩軍の兵士を供養するために建てられたものでした。
1877(明治10)年、西郷隆盛が新政府への不満を強めていた士族を率い、日本最後の内戦である西南戦争を起こします。官軍との戦いは熊本、大分、宮崎をたどって最後は鹿児島に移ります。
城山のふもとに立つ西郷隆盛像西郷の率いる薩摩軍の一部がたどり着いたとき、鹿児島のほとんどは官軍に占領されていました。薩摩軍は涙橋の近くの高地に陣を構えて官軍と交戦。旧式の兵器や少ない弾薬しかない薩摩軍は、6時間に及ぶ戦闘で多くの死者を出し、紫原(むらさきばる)方面に退却したということです。
紫原は、涙橋から見上げる丘陵地の上にあります。薩摩藩の刑場もこの上にありましたが、今は一帯が住宅地となっていることもあり、お寺が残る江戸の刑場跡とは違ってはっきりと場所を示すものは残っていません。
そこで、薩摩藩の近世・近代に詳しく、大河ドラマ「篤姫」などの時代考証も担当した志学館大学の原口泉教授(日本近世・近代史)にお話を聞きました。
原口教授によると、鹿児島の涙橋もやはり、刑場へ連れて行かれる人と家族が別れたことが名前の由来だそうです。
それとは別に、この涙橋付近は薩摩の歴史に何度も登場した場所でした。南北朝時代、戦国時代、そして前述した西南戦争と3回大きな戦いがあり、多くの血が流れた場所だったそうです。
さらに「江戸時代の薩摩には、刑場で処刑が行われると、青年武士たちが刑死者の遺体から内臓を取ってくるという風習がありました。『ひえもんとり』と呼ばれるもので、肝試しといいますか、若者たちが武勇を競うものだったのです。里見弴(さとみとん)の短編小説にもなっています」と教えてくださいました。
刑場に由来することは予想どおりでしたが、薩摩の風習とのかかわりもあって、涙橋は人々によく知られた橋だったようです。市電の停留所の名前に残った理由はここにありそうですね。
現地では、涙橋の歴史を感じさせるものは見つけられませんでしたが、罪人とその家族が流した涙が由来だったとしても、別の時代には、ここで戦って命を落とした人をしのんで涙を落とす人々もいただろうと、市電や車が行き交う交差点で想像しました。
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2014082600001.html
この涙橋血戦の碑から川沿いに登っていくと、程なく鹿児島市営の郡元墓地に行き当たります。十数か所ある鹿児島市営墓地の一つです。その中でもここは、谷間の斜面いっぱいに広がり、管理人も配置されているという、かなり大きな公営墓地です。
刑場があったことに関連する涙橋の由来からしても、ここが死者の地であった歴史は、それなりに古いものがあると思われます。
で、この墓地が広がる谷間の端にあたる部分に、谷の上に上がることのできる道がついています。
崖と墓地に挟まれた道ですが、墓地参詣者専用通路というわけではなく、谷間を上がりきったところにある住宅地につながっています。
そしてそこには、崖の上から墓地を見下ろすように、志学館大学があります。こんなところにあったんですね。いま通ってきた上り坂は、大学の通学路の一つになっています*1。
この志学館大学、改称前の名称は鹿児島女子大学(1979年設立)で、鹿児島女子短期大学(1965年設立)が系列校として今もあります。またここはもともと短大のキャンパスで、それが市の中心部に移転したのを機に、四大が霧島市からここに移転したという経緯があります。志学館中等部・高等部もこの近くにありますし、学園全体としては長らく定着して縁の深い場所であるようです。
そのあたりのことは、学園創設者のお墓がこの地にある点からもうかがえます。
また、学校関連で言うと、志学館大学から住宅地を挟んで少し離れたところに、鹿児島純心女子短期大学があります。幼稚園から中学・高校・短大・大学・大学院までそろった学校ですが、そのうち短大と中学校・高校があるここも、丘の上にキャンパスが広がっています。
で、ここも実は、最寄りであるJRの郡元駅や市電の純心学園前駅に向かう通学路が、墓地(鹿児島市営平原墓地)沿いに伸びているんですよね。
両学校のある郡元・唐湊一帯には、他にも多くの墓地があるようで、「死者の地」であった場所の範囲は、私が最初想像していたのよりもだいぶ広いようです。
おそらく、そうであるがゆえに、学校を設立できるだけの広い土地が残っており、墓地と学校とが隣接する今の姿に行き着いたのではないか、と推測してみたりしています。
ただし、鹿児島市街地周辺のシラス台地であるこうした高台は、1950年代まではそもそもが未開発の荒地であり、戦後新たに住宅地として開発されていったという経緯があるようです。「墓地と学校の立地の関係性」についての考察は、そうした都市開発事業との絡みも考慮に入れる必要があるでしょう。
www.shigakukan.ac.jp
www.k-junshin.ac.jp
下記の論文によれば、志学館大学に隣接した紫原地区は、鹿児島市の住宅公社によって鹿児島都市圏で最初に開発された(1956年~)大規模宅地ゾーンであるとのことです。
千葉昭彦「鹿児島都市圏における大規模宅地開発の展開過程」(『経済地理学年報』第43巻第1号、1997)
*1:ただし自動車の通行は不可です。自転車も坂下の駐輪場にとめることになっているようです。