東義大学校を訪れる。

釜山に来たついでに、あの大学に足を運んでみた。釜山・慶南地域の有力私学の一つである。

最寄りの地下鉄東義大駅からは大学の循環バスが出ている。学生でなくともハナロカードで普通に利用可能である。そもそもこの大学は、アクセスもキャンパス内も、斜面に立地することの多い韓国の大学の中でも屈指の急傾斜であると思われるので、バスを利用せずに徒歩でアクセスしようとすれば相当の覚悟を要する。

事件の現場であった図書館にも足を運んでみる。

この建物の9階にある博物館を見学した際に研究員の方に確認してみたのだが、事件当時を想起させるような表示や記念物などはキャンパス内には存在しないということであった。

事件関係者を中心に構成されている동의대학교 민주동문회(東義大学校民主同門会)のサイトを見る限り、それはそうだろうなという気がする。彼らは彼らで、真剣かつ必死である。そうした真剣さ必死さの根底には、紛れもなく自らの置かれたポジションに対する危機感がある。

この事態をどう打開するかについて、『朝鮮日報』はとりあえずその困難さをよく理解していると思う(田麗玉のような人物とは違って)。

【社説】権力に都合良く書き換えられた東義大事件(下)
記事入力 2009-02-26 07:15:02

                 (前略)

 過去10年の左派政権は韓国の歴史を「正義が失敗し、機会主義が勝利した恥ずべき歴史だ」と規定した。そして、過去の出来事から自分たちの大韓民国観に合うことだけを選び、誇張する一方、それに反する事実は切り捨て、葬り去った。国家の公権力の象徴である警察官を焼死させた暴力デモ参加者に「民主化運動」の勲章を与えた東義大事件はその代表的事例だ。東義大事件の再審理を要求する動きは、権力に都合の良いように歴史を書き換えた過去10年間に対する反作用だ。政権が歴史的事実を確定する権限を振りかざし、歴史的事実の意味付けを行う審判者まで演じて書かれた歴史書は、後日破り捨てられ、新たに書き換えられる運命を避けられない。

 問題は、過去10年間に権力が介入して、事実や意味が逆解釈されたり、偏向した理念に合わせて歪曲(わいきょく)されたりした歴史の痕跡を、どんな方法で消し去り、修正するかだ。現在の権力がそれを行えば、権力の歴史介入というジレンマに陥るからだ。「過去の権力」が破壊した歴史を「現在の権力」による影響を受けない形でいかに独立的に元来の姿へと回復させるかという課題が、われわれの前に横たわっている。

http://fs1.jp.cyworld.com/news/news_read.php?news_post_code=1000017643

東義大事件のように〈ひっくり返しやすい〉ところから手を付けるとしても、その逆転には必ず限界がある。しかも、そこには誰が見ても明白な限界線を引くことはできない。それは「法の政治」の発動となる他ないのである。

法の政治学―法と正義とフェミニズム

法の政治学―法と正義とフェミニズム

そうした法の政治の向こうにどのような倫理を見出しうるか。その倫理から翻って、どのような政治を構想することができるか。そのへんを、私は考えてみたいと思うのである。