野球をするためにPL学園に行った同級生がいる。残念ながら彼の代は甲子園には手が届かなかった。
2009年7月23日
【関西スポーツ この場所から】PL学園グラウンド KKコンビも切磋琢磨
心技体を鍛える《広々としたグラウンドは、緑の芝生に覆われている。周囲を高い金網のフェンスが囲んでいて、その向こうに雨天練習場と、野球部の寮があった。単純な僕は、そのグラウンドに一目ぼれしてしまった。
「お父さん、僕ここで野球やる」
グラウンドで高校を決めるのもどうかとは思うのだが、あの時の僕はもうここしかないと決めていた》(清原和博著「男道」)
15歳の清原少年を魔法のように引き寄せたPL学園のグラウンド。そこは数多くの名選手が、野球人としての基礎を築いた「特別な場所」だ。「激しい生存競争の中で培われたPLの誇りと伝統の力が、グラウンドには脈々と生きている。グラウンドは心技体のすべてを鍛える人間修練の場だった」
そう話すのは、1980年秋から98年春に監督を務め、甲子園で歴代最多の58勝を挙げた中村順司・名古屋商大監督(62)。
お化けが出た?
62年、夏の甲子園に初出場したときの1番打者で、OB会長も務める光本勝成さん(65)は「PLの練習が厳しいのは有名だが、本当に厳しいのは、全体練習ではなく個人練習だった」と話す。
全体練習で目立つためにはまず個人練習で力をつけないといけない。全寮制で全国から野球のエリートが集まり、競争の激しいPLでは、早くから個人練習の習慣が伝統的に定着していた。
「桑田真澄さんと清原さんの個人練習は特にすごかった。桑田さんは朝から晩までいつも走っているし、清原さんもずっとバットを振っていた。偉大なふたりの猛練習は、生きた手本でした」
87年春夏連覇の投手で「PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?」の著者、橋本清さん(40)が振り返る。
清原さんがPLにいたころ、グラウンドにお化けが出る、とうわさが立った。深夜、誰もいないはずのグラウンドから「シュッ、シュッ」と不思議な音が聞こえるのだ。実は清原さんが時間が過ぎるのも忘れて素振りをしていた音だった。
新たな伝統へ
清原さんの残した伝説はまだある。打球が外野フェンスを越えて次々と後方の窓ガラスを割ってしまうので、さらに高いネットが張られた。これが通称「清原ネット」で、現在も残っている。
かつてはそんな清原さんや桑田さんを見ようと女性ファンがグラウンドを何重にも取り囲み、たいへんな騒ぎだった。
今、そんなフィーバーも影を潜め、落ち着きを取り戻したグラウンドでは、平成生まれの部員たちが、新しい伝統を生み出そうと汗を流している。
(出崎敦史)=毎月第4木曜日掲載