かく倫理的でありたい

一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にとってのみ、「自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいい」。
倫理的とはそういうことだと私は思う。
つねに遵法的で、つねに政治的に正しく、つねに自己を犠牲にして他人のために尽くし、つねににこやかにほほえんでいる人間たちのことを「倫理的」だと思っている人がいるが、そうではない。
だって、そんな人で世界が充満していたら私たちはたちまち気が狂ってしまうからだ(少なくとも、私は狂う)。
だから、「そんな人間」は「倫理的」ではないと私は思っている。
他人を踏みつけにして自己利益を追求するだけの人間も、自己犠牲を厭わずに正義や信念を貫く人間も、「世間がそんな人間ばかりだったら、息苦しくてやってられない」人間であるという点では選ぶところがない。

http://blog.tatsuru.com/2010/02/03_0942.php

確かに。そうだと思います。

「常に正しくなんてやってられない」と思い至ったことが、私をこんな風にしたと思うのです。

正確な自己評価などというものはこの世に原理的に存在しない。
「正確な自己評価が出来ている人」が存在するように見えるのは、その人が「自分についての適切な外部評価を下してくれそうな人」を言い当てる能力を持っているからである。

ここもいいですねえ。

私は、適切な外部評価を下せてるんでしょうか。

私自身は、私が下した外部評価を、確信しています。安心してください。