マルクス論の中に挟まれたシュミット論

…ということなのではないかと思います。これ。

政治の本質は「あいつは敵だ、敵を殺せ」というものだと言われる。
だが、私は政治の本質は「みんな仲間だ、仲良くしよう」でなければならないと思っている。
いかにして共同体の統合を果たすかというのが政治闘争の究極目標である。
その目標に向かう過程では「いかにして、できるだけ多くの人々を仲間に引き入れるか」、それだけが問題にされるべきである。
そういうふうに考える人はきわめて少ないけれど、私はそう考えている。
政治力とは「反対派を効果的に排除する能力」のことではなくて、「反対派と仲良くなってしまう能力」のことである。
それはまっすぐに「天下無敵」「万有共生」という武道の原理に通じている。
わが知識人たちは久しくその批評性の鋭さを「攻撃性」を指標として考量してきた。
「非寛容である」ということと「批評的である」ということはぜんぜん意味が違うと思うのだが、どういうわけか、それを同義だと勘違いしている人がいる。
どれほど無慈悲で切れ味のよい批評を他人に向けて行っていても、そうしているおのれ自身の判断に紛れ込んでいるイデオロギーやドクサを遡及的に吟味する「装置」を備えていない人間は「批評的」とは言えない。
真に批評的な知性は「他者へのドア」がいつも半開きになっている。
だから、年齢が違い、立場が違い、職種が違い、信教が違い、政治思想が違い、国籍が違い、言語が違うと人といっしょにいても楽しむことができる。

http://blog.tatsuru.com/2010/02/14_1155.php

問題は、それでもやはり、その枠の外に出てしまう人はいることです。そうした人たちとどうコミュニケーションを取るかという問いは、やはり絶えず問われなければなりません*1

何にせよ、トランス何とかを標榜しつつ、政治的な敵と絶えずいがみ合うことを生業とする人間よりは、よほど聞き甲斐のあることを書いていると思うのです。私としては。

*1:そういうことを深く考えている人の一人が、他ならぬこの内田センセなのですが。