やしきたかじん晩年の痛々しさとは、何だったのか。

評者の中島さんと同じく大阪に生まれ育った私は、やしきたかじんのテレビ番組がけっこう好きでした。ヤカラを飛ばしつつも弱さや脆さを隠さない人間臭さを、そこに感じていました。

ただ、バブルを引きずりながら経済問題に吠えていたたかじんが政治話に深入りしていった頃には、まったくついていけなくなりました。それは、島田紳助についていけなくなったのとほぼ並行していたように思います。

率直に言って、老醜であったと思っています。その負の遺産が、今の大阪を重苦しく覆っているとも言えます。ただ、故人個人にその責任をかぶせて済ませる気にはなれません。

いま聞いてみたいのは、たかじんのことを先輩として近くで見ていた上岡龍太郎が、彼の人生をどう見ているのかということです*1

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今週の本棚:中島岳志・評 『ゆめいらんかね やしきたかじん伝』=角岡伸彦・著
毎日新聞 2014年10月19日 東京朝刊

小学館・1512円)

◇後押しした人々が民族差別を助長する皮肉

 大阪で生まれ育った私にとって、やしきたかじんは毎日のようにテレビで見る顔だった。言葉は暴力的で攻撃的。しかし、その中に弱さと脆(もろ)さが垣間見えた。歌手としても活躍したが、独特の歌唱法に感情の過多が現れていた。そんな彼に、私はどうしてもなじめなかった。

 本書はたかじんの足跡を丹念に追うことによって、傲慢と小心が同居するパーソナリティに迫る。

 終戦から4年後、たかじんは大阪の西成に生を受けた。父は14歳の時に朝鮮半島から渡って来た在日コリアンだった。父は息子の将来を案じて、日本人の母と籍を入れなかった。「家鋪」は母方の姓である。

 たかじんは父の出自に悩み、その事実を一切公表しなかった。気の許せる友人には伝えたが、時に「実は親父(おやじ)は韓国やねん」と泣いて打ち明けた。テレビ番組で、母がスタッフに提供した家族写真が映ると、終了後、実家に電話し「ばれてもええのか!」と怒鳴った。

 そんな彼は、中学生の時、ラジオから流れてくるコニー・フランシスの歌声に引き込まれた。それは「何を歌っても泣いているように聞こえる」。明るさの中に潜む哀(かな)しさが、心をとらえた。

 高校生になると、新聞記者を目指して新聞部に入った。政治や社会に不満をもち、義憤を綴(つづ)ったが、心は晴れなかった。そんな彼を救ったのは、やはり音楽だった。夢は次第にミュージシャンになることへと変わった。

 大学に入学すると、プロ歌手を目指して活動を始めた。当初はなかなか注目されず、京都・祇園のクラブやスナックで歌ったが、不意にレコードデビューのチャンスに恵まれた。27歳の時にアルバムをリリース。翌年セカンドアルバムを出したが、ヒットしなかった。ここで一旦、歌手の道に見切りをつける。

 しかし、引退の花道のつもりで出た音楽祭でグランプリを受賞。以後、巧みな話芸によってテレビタレントとして認知され、ヒットソングも生まれた。

 仕事が増えると金遣いが荒くなり、派手に遊びまわった。酒を飲むと気が大きくなり、攻撃的になった。目下の人間には、自分の力を誇示するかのように怒鳴り散らした。しかし、コンサートの前には神経の細さが災いし、下痢を繰り返した。舞台に上がる前には、楽屋で緊張のあまり嘔吐(おうと)した。そんなナイーブな心性が、更なる放蕩(ほうとう)へとつながった。酒を飲まなければ、人と付きあえなくなっていった。

 今世紀に入ると、プレッシャーから逃れるように音楽活動から離れた。レコーディングを遠ざけ、コンサート開催にも消極的になった。一方、03年には「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)をスタートさせ、政治に接近した。番組レギュラーの橋下徹が政治家に転身すると全力でバックアップし、国政では安倍晋三をもり立てた。そこには「追従はあっても批判精神はかけらもなかった」。

 番組が右派的な傾向を強めると、出演者から在日コリアンへの心無いコメントが発せられた。しかし、たかじんは何も言わなかった。話をうまくかわし、平気な顔を装った。もちろん、問題の本質は彼に沈黙を強いた日本社会の側にある。弱さを責めてはならない。

 安倍内閣の閣僚には、在特会関係者と同じ写真に納まる者がいる。後押しした政治家が、民族差別を助長するアイロニー(皮肉)を、あの世のたかじんはどう受け止めているだろうか。読後、やりきれない気持ちばかりが残された。

http://mainichi.jp/shimen/news/20141019ddm015070024000c.html

ゆめいらんかね やしきたかじん伝

ゆめいらんかね やしきたかじん伝

上岡龍太郎 話芸一代

上岡龍太郎 話芸一代

*1:ついでながら、上岡龍太郎は、百田尚樹のこともまた「探偵!ナイトスクープ」の放送作家として長年見ていたはずです。