夏の高校野球・「大阪大会準優勝」ということ

これは、高校野球ファンには興味深い記事でした。個人だけでなく、学校単位でも、勝負運というのは本当に不思議なもので、大阪では長年「強豪校」として位置づけられてきている大商大堺が甲子園に一度も出場したことがないというのは、間違いなく大阪高校野球界の七不思議の一つに数えられるはずです。

いま大阪の高校野球界に君臨する大阪桐蔭履正社も台頭してきたのは大商大堺よりずっと後ですし、他の新興校でも金光大阪東大阪大柏原大阪偕星学園のようにわりとあっさり甲子園出場を果たした学校もあります。「そろそろ大商大堺も…」と思われてから、もう何十年経っているでしょうか。

また、公立校に目を向ければ、戦前や戦後すぐの時期に出ていた市岡や八尾・北野のような学校は措くとしても、春日丘や渋谷のように、堂々と夏の大阪大会を勝ち抜いて甲子園に出場した学校もあります。私立校が圧倒的優位な大阪ですけど、公立校だからと言って甲子園出場を諦めるムードがあるわけでもありません。大阪にはシード校の制度もありませんし、何が起きるかわからないですからね。

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私が生きている間に、母校が甲子園出場を果たす可能性も、ゼロではありません。そう、ゼロでは、ない!

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甲子園まであと1勝 準優勝校の悔しさ・達成感 大阪
荻原千明2016年7月5日15時25分

 第98回全国高校野球選手権大阪大会が9日に開幕する。優勝して甲子園に出場する高校と同じ数だけ、涙をのむ準優勝校がある。「あと一つ」に迫ったからこそ見える景色、悔しさ、達成感――。その思いは後輩に受け継がれ、学校創立以来初めての甲子園を目指す原動力にもなっている。

大商大堺 「甲子園は想像の世界」

 2003年の第85回全国高校野球選手権記念大阪大会決勝で、大商大堺堺市中区)はPL学園に4―5まで詰め寄っていた。九回表、大商大堺の3年生だった福家一範さん(31)の前の打者が死球で出塁し、2死一、二塁のチャンスに。一打出れば甲子園、だめならゲームセット。藤井寺球場が歓声で震えていた。

 福家さんは「100%初球を打つ」と決めていた。相手捕手の性格を考え、内角が来る確信があった。捕手は内角にミットを構えたが、実際にボールが来たのは外角低め。打った瞬間、「終わった」と思った。

 一塁に向かうまで、スローモーションになった。走りながら、「これで終わりか。高校が終わったら、大学か」と考えていた。「3年間やりきったな」「この先、どうなるんだろう」

 さらに、「これ、一塁にヘッドスライディングするよな。で、泣くよな。でもそれってみんな一緒やな」とまで考えていた。

 間近に迫った一塁ベース。なぜか頭ではなくひざから滑り込み、そのまま正座するように、ベースを抱え込んだ。二塁ゴロ。ひざがズルむけになった。

 「僕らには『ついに決勝まで来た』という思いが少しあった。PL学園は甲子園に行くという執念しかなかった」。その後、法政大に進学して野球を続けたが、今は介護サービス会社の社長を務める。

 あの打席、思った通りの内角球が来てホームランにする――。そんな夢を今も見るが、甲子園に出た夢を見たことは一度も無い。「甲子園は死ぬまで想像の世界。今の大商大堺の選手にとっても、甲子園は想像だと思う。それが現実になってくれたら」と願う。

 大商大堺は2年後の05年夏も決勝に進んだが、中田翔選手(現・日本ハム)らを擁する大阪桐蔭に敗れた。14年まで監督を務めた敷嶋義之さん(62)は同校を夏のベスト4にも3度導いた。「甲子園は近いと思っていたけれど、監督をやればやるほど遠くなるようだった」

 現チームは昨秋の府予選で初優勝し、選抜大会につながる近畿大会に出場した。しかし初戦で敗れ、また甲子園を逃した。

 エースの神田大雅投手(3年)は、大阪桐蔭の松山心選手ら中学時代のチームメートが今春の選抜に出場するのをテレビで見たという。「甲子園に行くためにやってきた」。先輩たちがあと一歩で立てなかった夢舞台。「今年こそ」という強い気持ちで挑む。

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2003年の大阪大会決勝。大商大堺・福家一範選手(右下)の二ゴロで試合終了となった=藤井寺球場

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 大商大堺4―5PL学園 PL学園が先頭打者本塁打などで三回までに5点を奪い、3投手の継投で逃げ切った。大商大堺は三回に2点を返し、六、七回には1点ずつ加えたが、届かなかった。

■岸和田 12人の戦い、運あった

 「十二人の小さな円陣がとけた」。1968年の第50回大阪大会決勝の始まりを、翌日の朝日新聞大阪版はそう記している。円陣を組んだのは、準優勝した岸和田(岸和田市)。部員が当時の登録選手枠(17人)に満たなかったからだ。

 「打たれたことだけ覚えています。『コールドになるんじゃないか』と心配していたら、決勝はコールドが無かった」。エースだった長谷部優さん(66)は振り返る。準決勝まで6試合を1人で投げ抜いた。

 決勝の相手は「私学7強」の一つ、興国。初回に2点を先取したのは岸和田で、長谷部さんが「20年野球をやって唯一」という本塁打を放った。しかし、「そんなのを打つからいけないね」。四回に追いつかれ、2―10で敗れた。興国はそのまま、夏の甲子園を制した。

 「後から『あれが惜しかった』『これが惜しかった』と言うけれど、10人ほどで本当に甲子園に行けるとは思ってなかった」と長谷部さん。「運があった。みんな頑張っていたし」

 進学校の岸和田に入学して野球部に行くと、すでに1年生がスタメンで練習試合に出ていた。普段の練習は6、7人。100人規模でしのぎを削る強豪私学とは全く環境が違った。

 後に日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)で副会長を務める佐々木勇蔵さんが、岸和田を熱心に応援してくれた。泉州銀行(当時)の頭取で、長谷部さんの両親が転勤で兵庫県に引っ越すと、佐々木さんの家に住んで学校に通った。夏の大会前は他の部員も泊まり、まるで合宿だった。

 決勝で負けた後、「相手はすごい練習をしているから、負けてもしゃーない」と思った。ただ、「佐々木さんが期待してくれていたのになぁ」と悔やんだ。

 同年に阪急ブレーブスがドラフト3位で指名したが、「野球は高校で十分」と拒否。慶応大で野球を続け、松下電器ではアマチュア世界大会の日本代表に選ばれた。「満足ですよ」と振り返る。

 この夏、後輩たちは55人で大会に臨む。春の府予選は5回戦まで進んだ。北村颯都(はやと)主将(3年)は「甲子園は今までも『目標』だったが、春に勝ち進み、乗り越えなければいけないところが見えた。甲子園が遠い存在ではなく具体的になった」。

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1968年の大阪大会決勝で興国に敗れ、ベンチ前でうなだれる岸和田の選手ら=日生球場

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 岸和田2―10興国 岸和田が初回、長谷部の本塁打で2点を先取。興国は三回まで無得点に抑えられたが、計18安打で大勝した。

■桜塚 「夢みたい」 現実感なかった

 1998年の第80回記念北大阪大会の決勝前。藤井寺球場の一塁側ベンチに、桜塚(豊中市)監督だった和田充司さん(56)が腰掛けていた。静かで、「夢みたいだなぁ」と思った。

 取材は殺到し、応援も最高潮に達していた。ただ、「甲子園まであと1勝」という現実感はなかった。

 相手は春の選抜準優勝の関大一久保康友投手(現DeNA)を擁する優勝候補の本命だった。

 初回、先頭打者が打席の後ろぎりぎりに立って速球をヒットに、4番打者は打席の一番前に立ち、曲がり切る前のスライダーに合わせた。和田監督が事細かに指示したわけではない。「個人個人が考えて打席に立っていた」。選手にのびのびプレーさせようとサインで縛らなかった。

 桜塚の決勝進出は第48回大会(66年)以来2度目だった。この時のエースは故・奥田敏輝さん(元阪神)で、98年のエース・畠山将典さんと同じ右横手投げ。奥田さんも球場に応援に駆けつけたが、久保投手に要所を抑えられ、前回の決勝と同じ0―4で涙をのんだ。

 和田さんは現在、母校の茨木で監督を務める。茨木も第29回大会(47年)で決勝に進んだが、まだ甲子園の出場がない。「甲子園は小学校のときから変わらない夢。一生に一度、行きたいところです」(荻原千明)

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1998年の北大阪大会決勝後。敗れた桜塚の選手らは関大一の選手と一緒に記念写真を撮った=藤井寺球場

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 桜塚0―4関大一 関大一が初回に適時三塁打で2点を先取。二、八回に1点ずつ加えて逃げ切った。桜塚打線はエース久保に5安打に抑えられた。

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