続きです。
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広い墓地の全てを見て回ることはおよそ無理なのですが、帰りはもと来た南側入口に戻ることになるので、東側入口から南側入口までの間の範囲で、気ままに歩いて回ります。ここは、いろんなものが集積していて、見るべきところがたくさんあります。
さて、そうした中、火葬場兼管理事務所の裏手、鋭角な角地でひときわ目立つ「故兵庫県巡査 中山茂」のお墓ですが、その謂れは『兵庫県殉職警察消防官吏彰功録』を通じて知ることができます。これは国会図書館でデジタルアーカイブ化されています。
明治28(1895)年、西宮警察署に勤務していた中山巡査は、当時市内で猛威を振るっていたコレラの防疫担当を命ぜられ、職務途上で自らも罹患して死亡した、という人物です。日清戦争への出征から復職したのが7月10日、亡くなったのが8月9日といいます。
あんたこれ、佐賀・高串の巡査大明神・増田敬太郎と時期から何からまるっきりかぶりますやん。人が嫌がった死亡者の遺体の運搬を担って罹患して死に至ったという、ことの経緯も全く同じ。
(唐津警察署から高串地区の巡査として増田敬太郎が着任したのは明治28年7月21日、コレラに罹患してなくなったのはわずか3日後の24日でした。中山巡査も8月6日の罹患から死亡するまで3日です。コレラの脅威がいかなるものだったか、想像するに余りあります。)
増田敬太郎が「巡査大明神」となり、現在の増田神社の成立にまで至ったのは、高串という隔絶した土地柄の影響もあったでしょうし、増田巡査の死とコレラ禍の鎮静化との対比があまりにもドラマティックであったという事情もあったかもしれません。ただその背後には、こうして同じように亡くなった人も全国にいたはずで、西宮ではそれがこうして墓所の継承という形で残っている、というわけです。