死後生のお話。
死んだらどうなるか。死んだ後も、生きてたときと同じように、この世界を見ることができるのか。
んなもん分かるわけがない。死んだことなんてないんだから。
生者にはただ、生きて死者を見送った経験があるだけである。今までいたところからいなくなる。ここではないどこかへと去ってしまう。死者とはともかく、そのようなものであるらしい。
ところで、私にはこんな経験がある。
目の前にその人がいるのに、私は決してその人に触れることができない。
私の目にはその人が見えているのに、その人には普段、私のことが見えていないらしい。
その人に呼びかけられれば、答えることはできる。こちらから呼びかけることもできるが、その呼びかけは届いたり届かなかったりするらしい。基本的には、こちらからやたら呼びかけるのはちょっとまずいことだけは何となく分かる。
掲げたタイトルの独白は、ここに入ってくる。
臨死体験、ではない。死そのものである。
そこでふと思い至ったのである。
宗教的語りの中にしばしば登場する死後生の構想は、死の観念ではなく、生者の死の体験に裏打ちされたものなのだ、と。
ここから何かが少し見えてきたような気がしている。「死」を考える先に見え隠れする「愛」。
やっと、大塚愛について語りだす用意ができたかも知れない。