1962年、「東映‐国鉄」韓国オープン戦

突如として「夕刊フジ」に現れたこの記事。なかなか聞けない貴重で興味深い証言なので、ここにクリップ。

【球談徒然】東映国鉄韓国オープン戦開催を橋渡し
2010.08.30


高額チケットにもかかわらず、ソウル市営球場には2万超のファンが駆けつけた

 1962年11月10、11日、ソウル市営球場のバックネット裏特別席にいた。東映フライヤーズ(現日本ハム)と国鉄スワローズ(現ヤクルト)によるオープン戦のソウル開催を橋渡ししたとして招待され、同行取材したのだ。

 かいつまんでいうと、この年の2月、白仁天捕手(京東高−韓国農業銀行、72年パ・リーグ首位打者)が東映に入団するため来日したのだが、スピードスケートでも活躍していたとも伝えられ、いったいどんな選手なのか球歴を含め情報不足だった。羽田空港で出迎えた在日大韓民国居留民団の関係者からその辺を取材したが、その中の1人が金始啓渉外理事で、後日、東京・八重洲西日本新聞東京支社を訪ねてきて、「ソウルで東映国鉄オープン戦をできないものか」と持ちかけられた。

 懇意にしてもらっていた中沢不二雄パ・リーグ会長に伝えたところ、「面白いじゃないか。東映に話してみよう」となり、さらに東映国鉄に働きかけ実現するのだが、実際はこう書くほどトントン拍子に運んだわけではない。最初から乗り気の東映に対し、国鉄は一枚看板の金田正一投手がすでに日本に帰化していた。金田が韓国遠征に行くと決めたのは、在日韓国高校選抜軍のコーチとして6月に渡韓した次弟・高義氏(58〜60年国鉄在籍)から、大歓迎されたことを聞かされた上でのこと。そんなわけで東映国鉄の同意を得るのに2カ月余要した。

 それ以上に問題は主催権をめぐるソウル新聞社と京郷新聞社の対立があった。ソウル新聞社が韓国政府の許可を取るより先に京郷新聞社が東映と契約しており、9月には韓国日報が割り込みを策すありさま。ソウル新聞と京郷新聞で話し合いがついたのは東映阪神日本シリーズ中のことで、韓国政府の査証が取れたのは出発2日前の11月9日だった。

 まさに難産だったわけだが、試合そのものは9−0、9−1と東映ワンサイドゲーム。韓国側が看板とした張本勲−金田の母国対決も、金田が肩痛を理由に登板せず、顔見せで一塁を守っただけで肩すかしだった。しかし日本円にして特別席1050円、内野席900円、外野席600円の高額でも大挙詰めかけた初日2万5000人、2日目2万人は、対東映、対国鉄との前座試合のために結成されたオールソウルとの試合を含め勝敗は二の次、三の次。張本、白、金田ら我らがヒーローさえ見られればよかったわけで、朴正煕最高会議議長ら軍事政権高官も最後まで観戦。張本にソウル名誉市民章と韓国陸軍士官学校名誉章を贈った。

 東京・南千住に東京スタジアムが開場し、パはチーム創設17年目で東映が初優勝、セは阪神が15年ぶりに優勝したこの年、日本プロ野球界は何かと画期的だった。個人的にも王貞治一本足打法本塁打、打点の2冠王。12年連続20勝の金田正一の通算3509奪三振の世界記録。稲尾和久のプロ入り7年目の通算200勝達成と話題にこと欠かず、秋にはデトロイト・タイガースが来日した。

 これらの出来事に比べると大した意味を持たないような東映国鉄韓国帯同オープン戦だったかもしれないが、日韓国交正常化前だったことを考えると、民間外交の役割を果たした点でプロ野球史から書き落とせない。

 日韓基本条例は3年後の65年12月11日に参院で可決された。国交正常化への一歩を踏み出した。 


ソウル市内で見受けられた東映国鉄戦の宣伝ポスト

 ■今西 良光(いまにし・よしてる) 1930年、兵庫県生まれ。48年神港夕刊新聞社入社。のち神戸新聞社西日本新聞社と一貫して25年余プロ野球担当記者となる。巨人−東映当時の水原茂監督、西鉄−大洋当時の三原脩監督、西鉄ライオンズの黄金期に詳しい。西日本新聞運動部次長、開発局付部長。同社オリエント書房代表の73〜75年、フジテレビ系列放映の「木曽街道いそぎ旅」(菊島隆三著)、「かあさんの四季」(稲葉明子著)、「おもろい夫婦」(岩本武治著)などを発行した。

http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20100830/bbl1008301524005-n2.htm

「ソウル市営球場」というのは、かつての東大門運動場にあった、今はなき「東大門野球場」のことですねたぶん。

【ソウルの風景】東大門歴史文化公園

‘韓国アマ野球のメッカ’東大門球場が歴史の中へ

 ‘韓国アマチュア野球のメッカ’東大門(トンデムン)野球場が48年の映画を残して歴史の中に消える。 呉世勲(オ・セフン)ソウル市長は19日、ソウル市庁で辛相佑(シン・サンウ)韓国野球委員会(KBO)総裁、李来フン(イ・ネフン)大韓野球協会長に会い、「今年11月に東大門野球場を撤去し、代替球場7つを建設する」という内容に合意した。

ソウル市中区乙支路(チュング・ウジチロ)7街に位置する東大門野球場は1959年8月20日に‘ソウル運動場’としてオープンした。 壬午軍乱(1882年)当時に軍人らが蜂起した城東原頭(ソンドンウォンドゥ、東大門運動場がある地域の過去の別称)に、日本が1925年、京城運動場(サッカー場)を造成し、その隣にソウル市が59年、市立野球場を開場した。 66年の夜間照明施設設置など大々的な拡張工事を経て、1万8016平方メートルの敷地に座席2万2700席(収容人数3万人)という現在の姿になった。

東大門野球場は全国規模のアマチュア野球大会が開催される韓国野球のメッカだった。 プロ野球発足(82年)前の60〜70年代には、実業団リーグと高校野球の爆発的な人気を背に全盛期を迎えた。

東大門野球場の伝説は、63年に国内で初めて開催されたアジア野球選手権大会から始まる。 当時、韓国チームは宿敵・日本を相手に1次リーグで5−2、最終戦では3−0と連勝し、国際大会優勝を達成した。 アジア選手権の優勝は、選手が所属する実業団リーグの人気につながり、東大門野球場の好況が始まった。 韓国野球代表チームは、東大門野球場で2回目の開催となった71年のアジア選手権大会でまた優勝カップを手にした。

67年に東大門野球場で第1回大会を開催した大統領杯高校野球大会は東洋放送(TBC)で生中継され、高校野球人気に火がついた。 嶺南(慶南道)・湖南(全羅道)の名門高校が群雄割拠した当時の高校野球は、地域・学縁と連携され、70年代に爆発的な人気を集めた。 大統領杯・青龍期・鳳凰旗・黄金獅子旗の4大全国大会が開催される日には、未明からチケットを求めるファンの列ができた。 東大門野球場はその後も高校野球スターを生んできたが、ついに歴史の中へとその姿を消すことになった。

2007.03.19 18:48:35
イ・チュンヒョン記者

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=85646&servcode=400§code=410