飛田新地で感じたことを言葉にしてみる。
飛田新地で感じたこととは、いったい何だったのか。
相変わらず考えています。どう言葉にすればいいのか。
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社会学的な切り口というのは入り口としては有効だし、結局はそこから自分も入っていかざるを得ないとは思うのです。ただ、少しだけわかってきたのは、そこには実はあまり興味がない、ということです。
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制度の成り立ちやそこで働く人たちの履歴はもちろん重要なのですが、私はどうしても、「そこで人は何を思い、何を感じているのか」という、人の内面のところが気になります。
2009年 飛田新地で働いてた女 デイリーSKIN - ARTIST GUILD SKIN
飛田新地で感じたことを言葉にするのが難しいのは、「よくわからない」という理由がもちろん大きいのですけど、もう一つ気付いたのは、それが「痛い」ということです。
内田樹センセのこの文章はずいぶん昔に読んだのですが、今回、飛田新地のことを挟んで改めて読み返してみると、やはりこれがいちばん腑に落ちます。
セックスワーカーたちが「安全に労働する権利」を求めることに私は同意する。ただし、それは左翼的セックスワーク論者が言うように、売春者が社会矛盾の集約点であり、売春婦の解放こそが全社会の解放の決定的条件であると考えるからではない。またフェミニストの売春容認論者が言うように、それが「みごとな自己決定」であると思うからでもない。社会学者が言うように、性的身体を闘技場とした「権力のゼロサムゲーム」での勝利が売春婦たちに魂の救済をもたらすと信じるからでもない。そうではなくて、現実に暴力と収奪に脅かされている身体は何をおいても保護されなければならないと思うからである。
それと同時に、売春は「嫌なものだ」という考えを私は抱いている。
ただし、それは保守派の売春規制派の人々が考えているように売春が「反社会的・反秩序的」であるからではない。そうではなくて、それが徹底的に「社会的・秩序的」なもの、現実の社会関係の「矮小な陰画」に他ならないと思うからである。
身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべきであるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが「嫌い」である。
身体には固有の尊厳があると私は考えている。そして、身体の発信する微弱なメッセージを聴き取ることは私たちの生存戦略上死活的に重要であるとも信じている。
売春は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。
そのような仕事を長く続けることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。
「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的でない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。
「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業としようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、それがこれまで市井の賢者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」に与するのである。
痛みを他者に与えて平然と生きていき、痛みを与えられてそれを感じないように生きていく。
そうして行き場をなくした痛みの行方が、気になっています。