戦没慰霊碑の継承の問題

戦後70年を迎えて、こうした慰霊碑を建立した世代が世を去るにつれ、その継承は今後必ず問題になってきます。当事者世代と後続世代との間でどのように受け渡しをすべきか、個々の状況や条件に応じて、その答えは一律単純ではないはずです。

戦没慰霊碑、放置広がる…734基「管理不良」
2015年08月27日 01時21分


東日本大震災で石灯籠(手前)の上部が落ちた状態のまま放置されている戦没者慰霊碑(7月15日、茨城県土浦市で)

 太平洋戦争などの戦没者追悼のため、各地に建立された1万3000基を超える民間の慰霊碑のうち、少なくとも734基が倒壊するなど「管理不良」の状態であることが、厚生労働省の全国調査でわかった。

 管理状況が「不明」の慰霊碑も5386基あり、厚労省は詳しい調査を行い、来年度から移設も含めた対策に乗り出す。

 民間慰霊碑の多くは、終戦後に戦友会や遺族会が建立した。内部に遺骨が納められているものもあるが、会員の高齢化に伴って維持・管理は難しくなっている。

 厚労省は昨年度、都道府県を通じて各地の慰霊碑の管理状況を調査。その結果、記録上は全国に1万3174基あることが判明したものの、清掃活動や慰霊祭が行われるなど、管理状況が「良好」なのは7054基(53%)にとどまった。

2015年08月27日 01時21分

http://www.yomiuri.co.jp/national/20150826-OYT1T50062.html

全国にこれだけの数があるわけですから、各地での様々な取り組みについては、いくつも記事を拾うことができます。

両丹日日新聞2015年8月25日のニュース
忠魂碑を山中から移設 参拝しやすいようにと夜久野で

 福知山市夜久野町板生上町の山中にあった戦没者163人をまつる忠魂碑と芳名碑がこのほど、人の目に触れやすい旧精華小学校近くの民有地に移設された。24日には移設後、初めての慰霊祭があり、先の大戦などで犠牲になった上夜久野地区の先人に祈りを捧げた。

 毎年8月24日に慰霊祭を執り行う市遺族会夜久野町支部(飯尾恒昭支部長)によると、忠魂碑は同校の校庭の一角に建てられていたが、終戦翌年の1946年に山中へ移設された。50年には位牌堂、69年には芳名碑がそれぞれ完成した。

 ところが、会員の高齢化が進み、山中へ行くことが困難になっていることや、会員以外に石碑の存在を知る人が減ってきていることなどから、上支部で移設を検討してきた。

 今年の慰霊祭には例年より多い約50人が参列。6カ寺の住職が読経するなか、参拝者が焼香していった。

 叔父を戦地で亡くした飯尾支部長(75)は「今年は戦後70年の節目の年。犠牲者の上に今日があります。戦争がない日本が続くことを願ってやみません。後々まで大切に供養していきたい」と話していた。

写真=参列者が次々に焼香した

http://www.ryoutan.co.jp/news/2015/08/25/009527.html

【茨城】慰霊碑保存会が最後の主催 56年目、民間の海外犠牲者追悼
2015年8月21日


慰霊碑に焼香する慰霊祭の出席者ら=水戸市

 戦時中や終戦直後に海外で亡くなった県内出身の民間人を悼む「県海外殉難物故者慰霊祭」が二十日、水戸市の神崎寺で開かれた。引き揚げ者らの慰霊碑保存会が毎年開いてきたが、会員の高齢化で戦後七十年の節目に解散を決定した。保存会主催の慰霊祭は、五十六年目の今回が最後になった。 (宮本隆康)

 来年からは神崎寺が慰霊祭の開催や慰霊碑の管理を引き継ぐ。

 会員らによると戦時中、満蒙(まんもう)開拓団などとして、県内からも多くの民間人が海外に渡った。終戦前後、軍に徴用されてシベリアなどに抑留されたり、略奪に巻き込まれたりして大勢が犠牲になった。なかなか引き揚げ船が就航せず、特に乳幼児の多くが栄養失調で死亡したという。

 このため、県内の引き揚げ者有志が一九六〇年、日本に帰れないまま亡くなった県内出身の四千四百三十八人の慰霊碑を神崎寺に建立。慰霊碑保存会を発足させ、毎年八月に慰霊祭を営んできた。

 しかし当初、約二千人だった会員は、高齢化で現在は約四百人にまで減った。慰霊祭の出席者も三十、四十人程度になり、会の存続も危ぶまれたため、戦後七十年を区切りとして解散と神崎寺への引き継ぎを決めた。

 今回の慰霊祭には、保存会の会員や招待者ら約七十人が出席した。満州からの引き揚げ途中に叔父と叔母が亡くなった、ひたちなか市出身の打越千晃さん(35)が遺族を代表し「命懸けで大陸を逃げ惑った苦難の上に、私たちの家族が形成されていることを忘れてはならない」と呼び掛けた。参加者たちは、慰霊碑に焼香して冥福を祈った。

 保存会の嶋津孝二郎会長(73)は四歳の時、終戦から約一年後に満州から帰国できたが、銃弾が飛び交う中を母や姉と逃げ回った恐怖を記憶しているという。「慰霊碑を永久に守るには、これしかない。残念の極みだが、解散は物理的に仕方がない。今後も集まれる人たちは八月に参加し、慰霊はしていく」と無念さをにじませた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150821/CK2015082102000188.html

波多津町 遺族会壮年部が参拝、慰霊碑7カ所
2015年08月22日 10時29分


忠霊碑に哀悼の祈りをささげる波多津町遺族会壮年部員=伊万里市波多津町

 伊万里市波多津町遺族会壮年部(松本正秀部長)が15日、町内に7カ所ある忠霊碑に参拝した。戦没者に哀悼をささげ、戦後70年の節目に平和を祈った。

 終戦記念日とお盆の最終日に合わせて40年近く続いている恒例行事で、今年は70代以上の遺族14人が参加した。早朝から7カ所の慰霊碑を2時間以上かけて巡り、掃除や花を供えるなどした後で、静かに手を合わせた。

 同町では日清戦争から太平洋戦争までに250人が戦死している。父親がフィリピンで戦死したという吉田陸和さん(72)は「振り返ると70年は早かった。平和の願いを引き継ぐためにも、参拝を戦後生まれの子や孫の世代に継承することが今後の課題だ」と話していた。

http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/221454

2015年8月11日
旧日本軍の兵器を記念碑に 彦根戦没者慰霊碑で展示


記念碑の除幕式を行う高宮町遺族会自治会関係者ら。後方の丸いものが機械水雷彦根市高宮町のユクリ墓地で

 彦根市高宮町のユクリ墓地にある戦没者慰霊碑に、旧日本軍の兵器が記念碑として新たに展示され、十日、除幕式があった。高宮町遺族会や地元自治会の会員らが、戦争の犠牲者を追悼し、平和が続くことを願って設置した。

 記念碑は、日露戦争(一九〇四〜〇五年)があった当時製造された機械水雷(直径約一メートル)と、戦艦「三笠」に搭載されたのと同種の「二八センチ砲弾」(長さ約一メートル、直径二十八センチ)。

 戦没者慰霊碑は日清、日露、太平洋戦争で亡くなった地元出身の兵士約百八十人の名前が記され、戦後すぐに建立された。

 展示した二つの兵器は、少なくとも三〇年代から墓地の敷地内に放置されていた。理由は分からず「日露戦争の兵器を町に持ち帰り、自慢した人がいたのでは」との見方も。

 高宮町遺族会の北川國男さん(73)が各地の遺族会に問い合わせたり、専門書で調べたりしたところ、日露戦争時に製造されたが、使われなかったものと判明した。爆発する危険性はないという。

 高宮町遺族会は戦後七十年に合わせ、あらためて戦争の悲惨さを訴えるために二つの兵器を展示することを決め、自治会の協力を得て準備を進めてきた。

 除幕式には、高宮町遺族会や地元自治会の会員ら二十人が参列。北川さんは「記念碑とユクリ墓地、私たちの戦争の記憶を、地域とともに守っていきたい」と話した。

(山村俊輔)

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20150811/CK2015081102000025.html