薩摩絡みで再び脚光を浴びる佐川官兵衛
「八重の桜」で中村獅童が演じたのは知ってます。でも、あれももうけっこう前なのになあ…と思っていたら、今度は薩摩絡みでまた出てきたんですか、佐川官兵衛。
大河ドラマはぜんぜん観てませんけど、西郷隆盛と西南戦争つながりなんでしょうね。
福島)慕われた「会津の西郷どん」
池田拓哉 2018年1月26日03時00分西郷隆盛を描いたNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の舞台である鹿児島市内は、「明治維新150年」の熱気にあふれている。鹿児島県歴史資料センター「黎明(れいめい)館」には、西郷や大久保利通にまつわる資料が多数展示され、観光客らが連日詰めかけている。
展示品の中に、戊辰戦争で会津藩主、松平容保から出された嘆願書の写しがあった。自らの処罰は覚悟しているが、婦女子は赦免して欲しい――。約2メートルの細長い紙につづられた思いが会津の窮状を印象づける。
だが、展示全体の中で、会津に関する資料は少ない。学芸専門員、市村哲二さん(46)によると、戊辰戦争は明治維新から9年後、1877(明治10)年に起きた西南戦争の陰に隠れた存在なのだという。
国内最後の内乱である西南戦争は、西郷の自刃まで8カ月間続き、戦死者は1万数千人に上った。大久保と西郷が対立し、旧薩摩藩に亀裂を生んだ戦いは、旧会津藩の人々にとって大きな意味を持つものだった。
会津藩家老だった山川浩(旧名大蔵)ら多くの旧会津藩士が政府軍に従軍。かつての「賊軍」の汚名をそそぎ、その後の生活の足場を築く場ともなった。
西郷軍と戦った一人が、戊辰戦争で「鬼の官兵衛」と言われた旧会津藩士の佐川官兵衛(1831~77)だ。「西郷どん」の時代考証を務める鹿児島県立図書館長の原口泉さん(70)は「志高い『武士の意地』を持った人物だった」と評価する。
会津藩降伏後、斗南(青森県)での生活も経験した佐川は、警視庁の初代大警視(現在の警視総監)を務める旧薩摩藩士・川路利良に請われ、約300人の旧会津藩士と共に警視庁へ入る。西南戦争で指揮を執り、熊本県の阿蘇山中で戦死した。
原口さんは、ともに西南戦争で生涯を閉じた西郷と佐川の2人の共通点を指摘する。「二つの戦争で攻守を替えたが、新時代を見届けられなかった無念は同じだろう。調和を重んじ、人を引きつける魅力も共通していた」
熊本で佐川は、部下たちに略奪や暴行を禁じた高潔さから「鬼さま」と慕われた。後に陸軍少将となる山川は、佐川の人望をもって「薩摩における西郷のよう」と語ったという。
会津、薩摩はともに敗戦の苦しさや悲哀を味わった。原口さんはこう語った。「会津藩士は青森での開拓で苦労し、薩摩は親兄弟や親類の間で政府軍と薩摩軍に分断される結果となった。そうした苦しみやわだかまりを乗り越え、明治以降の日本の発展に力を合わせたという視点を大切にしたい」(池田拓哉)
タイミングもタイミングですしねえ。こういうところに中村彰彦さんが呼ばれるというのも、まあそれでしょう。
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戊辰戦争150周年 会津若松で講演会 市民ら500人参加
2018/1/30付 日本経済新聞 地域経済官民でつくる会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会は28日、同市内で歴史講演会を開いた=写真。戊辰戦争から150年の幕開けと位置づけたイベントに市民ら約500人が参加した。作家の中村彰彦氏が「戊辰の戦いに天皇家に逆らった賊軍は一人もいない」と指摘。「多士済々の方が(賊軍と呼ばれた)会津差別と戦ってきたことを評価すべきだ」と話した。
のちの西南戦争で戦死した旧会津藩家老、佐川官兵衛の顕彰碑が2016年の熊本地震で被災した熊本県南阿蘇村で、17年に新たな胸像が建てられたことなど各地の取り組みも紹介。徳島県鳴門市にあったドイツ人捕虜収容所でのベートーベン「第九」初演から100年の18年は、会津出身の松江豊寿所長を国際的に評価する動きが出ていることにも言及した。
講演に先立ち実行委トップの室井照平市長は「会津の歴史や先人の活躍に改めて光をあて、将来を担う次の世代に語り継ぐことが150年の節目に居合わせた私たちの責務ではないか」と呼びかけた。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO26276770Z20C18A1L01000/
そろそろ、阿蘇の南郷谷を再訪してもいい時期が、来たかもしれません。
水辺を訪ねて/1 南阿蘇村・明神池 名水に伝承加わる /熊本
毎日新聞2017年5月3日 地方版 熊本県
明神池の水に触れる地元住民戦国武将の子宝伝説や離ればなれになった恋人を待ち続け石となったカッパ伝説、西南の役で命を落とした警視隊の副指揮官で、会津出身の佐川官兵衛の武勇をたたえる伝承など、三つの言い伝えがあるなどぜいたくな池だ。それだけでも地元の愛着が分かろうというものだ。
明神池の名称は、そばにある群塚神社の愛称「明神さま」が由来。南阿蘇鉄道の阿蘇白川駅から徒歩10分ほど。線路が近く、池越えに列車が疾走する姿も望める。池の広さは今は752平方メートルだが、1953年の水害以前は5040平方メートルあった。「昔は神社の神木が池を取り囲んで鬱そうとしていた。ボコボコと池全体の底から水が音を立てて湧いていた」とは明神池名水公園保存会長の塚本秀昭さん(70)。水害で狭まり、1990年代初めに公園整備されて今の姿になった。水温は1年を通して14度と一定を保つ。
池は、群塚神社のご神体部分とコイやハヤの泳ぐ親水池に分かれている。活発に水が湧き、飲食用の水が汲めるのは神体部分。行くと男女がちょうどペットボトルに水を入れていた。男性が「焼酎の水割りに使うなら(南阿蘇村吉田の熊本名水百選の一つ)吉田城御献上汲場だよ」と言うが、塚本さんも負けていない。「名水のきき水大会をした時は明神池の水が一番人気だった」と教えてくれた。
池の背後には群塚神社が鎮座する小高い丘がある。丘がキャンバスとなり白や黄色、青の花が美しく、今はヤマブキ草の黄色い花が目を奪う。同行の元小学校校長、稲益親義さん(76)は野草の花を趣味でカメラで撮る。稲益さんは「四季の野草の美しさは白川水源に負けていない」と言葉に力を込める。
昨年4月の熊本地震でも明神池は湧き続けた。地区は2週間ほど水道が断水し、避難所で暮らした住民には命の水となった。それだけに南阿蘇村の吉田1区住民ら410人でつくる保存会は清掃に熱が入る。昨年7月の美化作業は一昨年と比べて1・5倍の120人を数えたという。名水にまた一つ伝承が加わった。【杉山恵一】
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風薫る季節を迎え、記者が県内各地の水辺を訪ねます。