静岡市そのものにはあまり縁がなくて、土地勘もないのですけど、賤機山というと、静岡駅から見て駿府城の向こう側ですね。
1945年の8月15日に向かうまでの数カ月の期間には日本各地が空襲に遭っていて、とてもすべての現地を見て回れてはいません。ただ、静岡は行こうとして行けない場所でもありません。いつか機会を作って、ここも見ておきたいと思います。
静岡空襲75年「歴史消さぬ」 日米慰霊祭、思いつなぐ
(2020/6/21 07:15)
水筒に入ったバーボンウイスキーを慰霊碑にかける参列者=20日午後、静岡市葵区の賤機山太平洋戦争末期に米軍の爆撃により多数の死傷者を出した静岡空襲。75年が経過した20日、犠牲になった市民と墜落した米軍爆撃機B29の搭乗員を追悼する日米合同慰霊祭が静岡市葵区の賤機山で営まれた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で例年は参加している米軍側の参加はかなわなかったが、関係者は「ともしびを絶やさないように」と平和への思いを新たにした。
静岡空襲では2機のB29が爆撃中に空中衝突し、市内に墜落。搭乗員の米兵23人が犠牲となった。慰霊祭の会場の賤機山山頂には日米二つの慰霊碑が立つ。僧侶伊藤福松さん(故人)が建立し、敵味方の分け隔てなく死者を弔ってきた。
伊藤さんの思いをくみ、長年にわたり慰霊祭を主催する医師菅野寛也さん(86)=同区=は空襲当時、小学6年生。やけどを負いながら火の海を逃げた記憶をたどり、「75年前の歴史を消してはいけない」と強調する。
今年で48回を迎えた合同慰霊祭には、遺族や自衛隊関係者ら約30人が参列し、慰霊碑に静かに手を合わせた。米兵の遺品の焼け焦げた水筒でバーボンウイスキーを慰霊碑にかけたり、日本酒を供えたりして冥福を祈った。
伊藤さんの孫の岩崎糸恵さん(71)=同区=も毎年、慰霊祭に出席している。「祖父の死後は菅野さんが引き継いでくれ、日米交流が続いている」と回想する。菅野さんはこの日のあいさつで、何度も感謝の言葉を口にした。コロナ禍での慰霊祭の継続に「当初は自分一人でと思っていたが、たくさんの人たちの後押しを受けた。次の世代につながなくては」と先を見据えた。
<メモ>静岡空襲 1945年6月19日深夜から翌20日未明にかけて、120機を超えるB29が静岡市の市街地に焼夷(しょうい)弾を投下。約2千人の市民が死亡、家屋約2万千戸が焼失した。
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