映画「82年生まれ、キム・ジヨン」を観る。

地元のイオンシネマで観てきました。こうした普通の映画館で一日5回も上映されるというのは、映画そのものの話題以上に、日本でも20万部以上を売り上げた原作の力があるのでしょう。

82年生まれ、キム・ジヨン

82年生まれ、キム・ジヨン

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印象に残った3つの場面。

あんパンを山ほど買ってきた弟くん。次はきっと、山のようにクリームパンを買ってくるでしょう。
八天堂のを買っていくと、めっちゃ感動されるぞ。)

ホタル族のようにベランダで電話するお父さん。次はきっと、娘のための韓薬を買ってくるでしょう。
(そうなったらなったで、鬱陶しいくらい構い出すかもしれないっすね。)

育児休暇を取ろうとして四方八方から矢を浴びる旦那さん。でもきっと、育休を取っても評価されるパイオニアとして、道を切り開いていくでしょう。
(何せ、クォンサンウの引き立て役の不良からここまで出世したコンユやし。)

3人は皆それぞれに自らの過去を振り返り、相手に対する負い目に気付き、そのさらに過去を見出していきます(描かれていませんが)。

3人の野郎どもに限りません。キムジヨンを傷つけ、苦しめたのは何だったのか。

それは過去です。過去の根から生えた蔓が、彼女に纏わりつき、その自由と未来を縛っていきます。

お姉さんも、お母さんも、お祖母さんも、そうやって過去に縛られ、自らも過去に根を生やして、そこにいることを受け入れてきたのです。

人間は、根の深い木となって、過去から生を享け、未来へ向けて花をつけ、新たな生命に後世に託すのです。

キムジヨンが立っているのは、未来と過去との間の端境期。

自分の未来をもっと追いかけることもできた。子どもさえ産まなければ。

子どもが生まれただけなのに、生まれた以上、未来は子どもに託されていきます。自分はその裏に回されていきます。それは、上の世代が代々辿ってきた道です。

「飲み会にも行けないし、友だちにも会えなくなる」とほざいていたデヒョンだって、自分の都合や感情で働くのをやめるわけにはいかなくなっていきます。ジヨンは働けない。デヒョンは休めない。そのままでは夫婦共倒れです。
(実際問題として、この夫婦は客観的に見てかなり恵まれている。それでも壊れるほどに辛い。そこのところを、ここでの問いとしたい。)

たぶん、一人で、あるいは二人で、どれだけ頑張っても、それだけで抜け出せるような困難ではないでしょう。少しずつ、誰かが誰かを助けて支えあって、何かがどこかで、気が付いた時には変わっている。そうでもないと抜け出せない。
(キムジヨンの場合、近くに悠々自適で暮らす理解ある親がいて、育児を全力でサポートしてくれてれば、たぶん事態はぜんぜん違っていた。ただ、ここで問われているのはそういうことだけではない。)

チーム長のようなカリスマが、無から有を造り出し、そして庶民であっても子のことを案じるオンマアッパたちが、例外を当たり前に変えていき、普通の人間でもその恩恵に預かれるように、少しずつ世界を変えていくんではないですかね。
(この作品の中で、観客がいちばん涙を流した〔※個人的印象です〕のが、祖母に憑依したジヨンが母に語り掛ける場面だったのは、やはり意味があることだったのだと思います。)

原作との比較でエンディングの場面が云々されることもあろうと思います。それはたぶん、一つには原作発表時から現在に至るまでの社会の変化、もう一つはキムジヨンだけでなく家族に光を当てたことによる必然が、あったのではないかと。

アヨンのために何を残せるか。どうしてどうなることが、よりよい未来を次の世代に託すことになるのか。

そう考えてみると、原作の絶望を引き受けて、どうにかしようとした結果があれだったんではないですかね。「どうにかしたい」という思いを、何に向けていくか。私としては、腑に落ちるものでした。

他の人がどうかは、知らんけど。


追記:映画「キムジヨン」を受けて書かれた記事もいろいろ出ていますが、この記事は特によかったですね。自分の感じたこともそう的外れではなかったようです。

gendai.ismedia.jp

こちらは著者と翻訳者の記事。これも読み甲斐があります。

www.elle.com
lee.hpplus.jp