「陸軍登戸研究所」の実態掘り起しへの取り組み

こういうのって、できるときにできる人がやらないと、もう取り返しがつかなかったりするんですよね。1980年代末に高校生が調査を開始、ってことは、当時の高校生はいま50歳前後。これだけ継続されたこの取り組み自体もまた、貴重な歴史事実として伝えられるべきでしょう。

www.meiji.ac.jp

この資料館、今のところ学外の一般人には公開されていないみたいですし*1、遠方の人や国外向けにも、オンライン展示は今後も継続してもらいたいところです。

陸軍登戸研究所、暗部に迫った高校生 30年の活動記録
斎藤博美 2021年1月18日 11時38分

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明治大学平和教育登戸研究所資料館。この資料館ができたのも高校生や市民らの活動があったから=明治大学提供

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1991年3月、川崎市と長野県の高校生が明治大生田キャンパスに残る登戸研究所遺構を調査している様子。研究所本館として使用されていたこの建物は現存しない=木下健蔵氏提供

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資料館に常設展示されている風船爆弾の模型。実際に日本から米国本土に届いて死者を出した=明治大学提供

 戦時中、極秘に特殊兵器を開発したとされる通称「陸軍登戸研究所」。謎に包まれていた研究所の「暗部」を掘り起こしたのは、1980年代からの高校生や市民らによる地道な活動だった。約30年の活動記録を展示する企画展が、明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)で開かれている。コロナ禍でしばらくはオンラインでの開催となる。

 旧陸軍は1937年、川崎に実験施設を開設。39年から通称登戸研究所として、本格的に生物兵器風船爆弾、偽札などの研究開発をしたとされる。戦局の悪化で長野県などに疎開し、敗戦で解散。その際、研究所に関する資料は焼却されるなどし、徹底的に破棄された。

 闇に葬られそうになった研究所の活動を明らかにする突破口になったのは、主に高校生たちだった。80年代末、法政二高(川崎市中原区)の生徒が、川崎市の中原平和教育学級のメンバーらと、研究所に勤めていた人の名簿を頼りに調べ始めた。同じ頃、研究所の疎開先になった長野県の赤穂高校(駒ケ根市)の生徒たちも、長野に残った研究員らの聞き取りを始めていった。

 「歴史から抹殺されることに疑問を持った元研究員たちが、若い世代に戦争の恐ろしさを伝えておきたいと、高校生になら話そうと思ったようです」と、同資料館館長の山田朗明治大教授は話す。なかでも研究所のほぼ全てを把握していた幹部研究員が、高校生たちの熱意に応え、自らの経験を語り出したことが大きかった。他の研究員たちも安心して話すようになったという。ちょうど昭和から平成に変わったころ。「昭和が終わったことも、話す気持ちを後押ししたのだと思います」

 それから約30年。市民や登戸研究所の関係者らも歴史の掘り起こしに尽力し、資料が残っていなかった研究所の概要が明らかになった。

 オンラインでも見られるパネルでは、こうした経緯が資料とともに詳しく紹介されている。ただ「入館できるようになったらぜひ実際に足を運んで」と山田館長。「個人情報の関係でオンラインには載せられない資料も展示しています」

 7月3日まで。入館無料。当面はオンライン展示(https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/index.html)のみ。実際に入館できる時期が決まったら、同館のウェブサイトなどに掲載予定。問い合わせは同館(日、月、火休館。午前10時から午後4時)へ。(斎藤博美)

https://www.asahi.com/articles/ASP1K6X8LP1GULOB013.html

*1:「一般の方を対象とした開館時期は未定」とあります。