長い年月を経て、南海ホークスの歴史の中に野村克也が帰還

わりと早い段階で、なんばパークス南海ホークスメモリアルギャラリーには行っていました。その展示の中に野村克也の影一つなかったことに、言いようのない違和感を覚えました。わざわざあの施設に足を運ぶ人なら、十人が十人とも感じたことだと思います。

それからでもすでに十年以上、愛憎入り混じる因縁が生まれてからだとすでに44年。ようやく落ち着くところに落ち着いた感があります。江本さんや南海電鉄をはじめとする各方面の尽力があって実現したことですが、ご本人の半生に及ぶ年月を経て、亡くなった後にようやく実現したという事実の重みについて、思わずにはいられません。

リニューアル後の展示を観に、また近々行ってこようと思います。

ノムさん大阪球場に帰還 44年前の愛憎超えた南海の弟子の尽力
毎日新聞 2021/2/17 12:00 (最終更新 2/17 12:00) 2303文字

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戦後初の3冠王を決め、ファンの声援に応える野村克也さん=大阪・藤井寺球場で1965年10月21日

 「ノムさん」が古巣に帰って来た。1959年のプロ野球日本シリーズを4連勝で制するなど、一時代を築いた南海(現福岡ソフトバンク)ホークスの「4番・捕手 背番号19」は、2020年2月に84歳で亡くなった野村克也さんだ。その遺品などが14日から、本拠地だった大阪球場跡地のなんばパークス内「南海ホークスメモリアルギャラリー」(大阪市浪速区)で展示された。65年に戦後初の3冠王、監督兼任で73年リーグ優勝と誰もが認める「ミスター南海」だが、07年のギャラリー常設以来、野村さん関連の展示は初めて。なぜ長年にわたり、最大の功労者を欠く事態が続いたのか。【大東祐紀】

 発端は77年にさかのぼる。野村さんはシーズン終了間際、南海の兼任監督を電撃解任された。この年の最終成績は2位。要因は当時交際中で後に妻となる沙知代さん(17年死去)が絡むトラブルだった。「公私混同によるチームへの悪影響」。記者会見で野村さんは解任理由を強く否定したが、沙知代さんがチーム運営や選手起用に口出ししたとされ、これを機に野村さんと南海との「愛憎劇」が始まった。

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式典で始球式を行う江本孟紀さん=大阪市浪速区なんばパークスで2021年2月14日(代表撮影)

 今回のプロジェクトは「おかえり!ノムさん 大阪球場なんばパークス)に」と題し、サンケイスポーツ南海電鉄でつくる実行委員会が主催。南海で野村さんとバッテリーを組んだ江本孟紀(たけのり)さん(73)=サンケイスポーツ評論家=が発起人となり、ギャラリーのリニューアル費用は20年11月から3カ月間、クラウドファンディングで募った。全国の2388人から目標だった2000万円の倍以上となる4300万円超が集まり、ファンが「南海の大スター」を忘れていないことが証明された。

 江本さんにとって、野村さんは恩人だ。社会人野球の熊谷組からドラフト外東映(現日本ハム)に入団し、71年は未勝利だったが、その荒れ球に将来性を感じた野村さんがオフにトレードで獲得した。野村さんの卓越した野球理論による指導と巧みなリードで「再生」した江本さんは移籍1年目に16勝を挙げ、プロ11年間で通算113勝と大きく飛躍した。

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南海で野村克也さん(右)とバッテリーを組んだ江本孟紀さん=東京・後楽園球場で1975年4月29日

 江本さんは「野球に関する考え方がまるで違った。あそこまで考え、野球を突き詰める人は他にいなかった」と回想する。球場へ高級米国車リンカーンで通う野村さんから、「こういう車に乗りたかったら、頑張れよ」と言われたことを今もよく覚えている。弱肉強食の厳しい世界を生き抜くための、ちょっと気取った激励だった。

 京都・峰山高から54年にテスト生として南海に入団した野村さん。底辺からはい上がり、24年間も在籍した古巣を追われた後は、「生涯一捕手」としてロッテ、西武で45歳まで現役を続けた。さらに90年から9年間監督を務めたヤクルトでは3度の日本一にも輝いた。それでも、江本さんは「野村さんといえば南海。また、南海なくして野村さんも語れない。王(貞治)さんや長嶋(茂雄)さんに匹敵するスターがギャラリーにいないことが、そもそもおかしかった」と南海とのつながりを強調する。

 「花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草もある。王や長嶋はヒマワリ、俺は月見草」

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名選手パネルのコーナーに追加された野村克也さんの写真。野村さん関連の映像も流れている=大阪市浪速区で2021年2月14日午前9時50分、大東祐紀撮影

 野村さんが通算600本塁打を達成した75年5月、当時巨人の大スターだったONと自らを比較した言葉だ。代名詞である「ぼやき」の中に、注目度が劣るパ・リーグで、その老舗球団だった南海の屋台骨を支えてきた自負が感じられる。

 野村さんが南海を解雇されるまでのいきさつを、江本さんは振り返る。「大阪市内のホテルで、何人かの選手と一緒に野村さんと話をした。不満に思っている選手もいる、と進言しました。普段は選手の話を聞くことはなかったけれど、その時は『分かった』と言っていましたよ」

 だが、世間的に「悪妻」とされた沙知代さんへの思いやりもあったのだろう。輝かしい球歴を切り開いてくれた球団でもある南海と生前、溝が埋まることはなかった。生前、ギャラリー展示の許可を求められても、かたくなに首を縦に振らなかったという。ただ、江本さんは「そろそろ、俺も南海に帰ってもいいか」という野村さんの思いを感じ取っていた。「沙知代さんが亡くなったのもあるでしょう。大阪、南海への郷愁が年々強まっていたと思う」

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野村克也さんが使用したユニホームやキャッチャーミットなどの遺品=大阪市浪速区で2021年2月14日午前9時20分、大東祐紀撮影

 14日にリニューアルオープンセレモニーが開催され、江本さんや野村さんの孫で楽天野村克則捕手育成コーチ(47)の長男・忠克さん(19)さんが会場を訪れ、記念の始球式などを行った。リニューアルにより、「名選手パネル」のコーナーに野村さんの写真が追加された他、愛用したキャッチャーミットや背番号19のユニホーム、3冠王達成時の記念盾などが展示された。

 江本さんは阪神移籍後の81年、起用法を巡る不満から「ベンチがアホやから」と球団首脳陣を批判し、引退した。ノムさんも「手を焼いた」やんちゃな弟子が、44年ぶりの「里帰り」を実現した。

 江本さんは言う。「本当はむりやりにでも、生きているうちに戻って来させたかった。でも、天国で喜んでくれているんじゃないかな。『いらんことをしやがって』と言われるかもしれませんけど」

南海ホークス

 1リーグ時代の1938年、南海電鉄(本社・大阪市)を親会社とした「南海軍」として発足。46年に「近畿グレートリング」のチーム名で初優勝を果たし、翌年から「南海ホークス」となった。50年からの2リーグ分立ではパ・リーグに。88年オフのダイエーへの球団譲渡による福岡移転(2005年シーズンからソフトバンク)まで、12回の優勝(日本シリーズは59、64年制覇)で「パ・リーグの雄」として知られた。

https://mainichi.jp/articles/20210216/k00/00m/050/200000c