ハーグ密使事件の李儁

毎日新聞に載っていた記事を見て、このハーグ密使事件の李儁に会っていたことを思い出しました。つい最近、ソウルで。

具体的には、東国大学校の隣、奨忠壇公園でです。公園内での位置的には、恵化門側ではなく正門側、野球場などに近いところで、東国大の校舎をバックにして立っておられます。




で、そこからさらに思い出したのは、李儁の墓所のことです。国立4.19民主墓地に接した北漢山に多数建てられている殉国先烈・愛国義士の墓域の中に、李儁の墓もあります。それもかなり大きく目立つ形で。

調べてみると、私が最後にそこを訪れたのは2010年2月のことでした。今はこの頃よりも整備が進んで、さらに変化しているかもしれません。

ナショナリスティックな山歩き・1―北漢山編


李儁の墓もその時訪れているのですが、ろくな写真が残っていませんでした。そこに着くまでの道のりがあまりに寒くて、ここらへんでは手を抜いてしまったようです。

ハーグに葬られた李儁の墓が韓国に移されたのは朴正煕政権期のことで、墓碑とともに朴正煕の揮毫碑があるのはそうした事情によるものです。

朴正煕大統領を探して2013(12) 補遺

ちなみにここは、墓地として隣接しているだけあって、1960年の「4.19革命」との結びつき(結び付け)も浅からぬものがあります。




ふしぎソウル:(6)朴槿恵大統領がハーグで行きたかった所
2014年04月03日

 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が3月下旬、核安全保障サミット出席のためオランダ・ハーグを訪問しました。安倍晋三首相、オバマ米大統領との日米韓首脳会談が開催されたことで、日本でも注目された外遊でした。日本の記者の関心も首脳会談にあったわけですが、一部の日本人記者の間では冗談交じりに「まさかね」と話されていたことがありました。結局、杞憂(きゆう)に終わったのですが「まさかハーグ密使事件を話題にしたりはしないよね」と、話していたのです。

 ハーグ密使事件というのは、大韓帝国の皇帝・高宗が1907年6月にハーグで開かれた第2回万国平和会議に3人の密使を送った事件です(朝鮮王朝は1897年に国号を大韓帝国に改め、国王が皇帝になっていました)。

 韓国は、1905年の日韓保護条約によって日本の「保護国」となり、外交権を失いました。それに不満を持つ高宗は、日本支配の不当性を国際社会に訴え、保護条約が無効であると列国に認めさせようと考えて、3人の代表団をハーグに派遣したのです。

 ところが、韓国は外交権を失っているという理由で、密使は議場にすら入れてもらえませんでした。帝国主義時代の列強は、日韓保護条約が不当だという訴えも聞き入れません。それどころか、米国は翌7月の「桂タフト協定」によって、米国によるフィリピン支配を日本が認める見返りとして、日本の朝鮮支配を認めました。高宗の訴えが受け入れられるような時代ではなかったのです。

 密使の1人である李儁(イ・ジュン)はその後、ハーグで客死しました。病死と自殺の2説がありますが、韓国では「抗議の自殺」という見方が多いようです。

 韓国は結局、1910年の日韓併合条約によって日本の植民地支配を受けることになります。ハーグ密使事件は、1909年の安重根による伊藤博文暗殺と同じように日本支配への初期の抵抗と言えます。そんな町に朴大統領が行くというので「まさか」となったのです。

 ハーグには、事件に関する展示をする「李儁烈士記念館」があります。オランダに移民した韓国系実業家、李基恒(イ・ギハン)さん(77)が、3人の宿泊先だった小さなホテルを買い取り、1995年に開設したものです。

 40年ほど前に商社の駐在員としてオランダに赴任し、その後、独立して貿易業で成功した李さんが「李儁は有名だけど、韓国では専門的な研究すらされていない」と、一念発起して記念館をつくったといいます。

 万国平和会議の議場に入れなかった密使の3人は、日本の不当性を訴えるフランス語の声明文を配ったり、記者会見を開いたりして主張を訴えました。

 会議の機関紙的なフランス語の新聞の1面に、3人が写真付きで紹介されたりもしました。記念館には、そうした資料がたくさん展示されています。

 実は、朴大統領は国会議員だった2011年にハーグを訪問しており、その時には記念館にも立ち寄っていました。朴大統領はその時、芳名録に「国を取り戻そうとされ、国に殉じた烈士の愛国心に恥ずかしくない大韓民国を、後代の私たちがつくっていきます」と記しました。

 今回は、韓国の大統領が初めてオランダを訪れた機会でもありました。それだけに記念館側は「ぜひ朴大統領に来てほしい」と、韓国政府に要望したそうですが、核安保サミットや日米韓首脳会談などで忙しく実現しなかったとか。代わりに、朴大統領の側近である李貞鉉(イ・ジョンヒョン)大統領広報首席秘書官が記念館を訪ね「大統領が来られなくて申し訳ない」と伝えたそうです。


密使が宿泊したハーグ市内のホテルを改造して作られた記念館。英語では「イ・ジュン平和博物館」となっている=3月25日、澤田克己撮影


密使3人の写真を1面に掲載した当時の新聞=3月25日、澤田克己撮影


記念館には、朴槿恵大統領が国会議員時代の2011年に訪問した際の記録も展示されている=3月25日、澤田克己撮影


ハーグ密使事件の舞台となったオランダ議会などが入る建物群「Binnenhof」=3月23日、澤田克己撮影

http://mainichi.jp/feature/news/20140403mog00m030015000c.html

ハーグで見た韓国
MARCH 26, 2014 03:33

欧州には次のようなユーモアがあるという。 警察官は英国人で、恋人はフランス人、料理人はイタリア人、機械を扱うのはドイツ人、この全体を調整するのがスイス人なら、欧州は天国になる。 しかし、警察官がドイツ人で、恋人がスイス人、料理人が英国人、機械をフランス人が扱い、この全体をイタリア人が調整する場合、欧州は地獄になるというのだ。

駐オランダ韓国大使館関係者に聞いた話だ。 欧州では誰もが共感するユーモアだという。 北東アジアの長年の隣国、日中韓の国民を比較したユーモアも多い。 3国の人がエイリアンに会った。 中国人が尋ねた。 「お前たちに歴史があるのか」。 日本人が尋ねた。 「お前たちに礼儀があるのか」。 そして韓国人が尋ねた。 「お前たちは韓国を知っているのか」。

ユーモアはユーモアにすぎない。しかし、オランダ・ハーグではこのユーモアが核心をつく。 核安全保障サミットに出席した朴槿恵(パク・クンヘ)大統領を取材している記者は24日、時間を作ってハーグの李儁(イ・ジュン)烈士記念館を訪れた。

記念館は、李儁烈士がハーグに滞在した時に泊まったホテル、デ・ヨング(De Jong)の場所にある。 2階の床は当時の木の床のままだ。 140余り歳月が経ち、床は所々朽ちていた。 48才の李儁は、そこを歩き、誰も知らない大韓帝国の無念を訴えるために夜も眠れなかったことだろう。

1905年の乙巳保護条約で外交権を失った大韓帝国は、形だけの国家だった。 李儁は1907年、ハーグで44ヵ国の代表が集まって世界平和を話し合う第2回万国平和会議が開かれることを知り、高宗(コジョン)皇帝の特命でハーグに向かった。 ソウルを発って65日後にハーグに到着した彼を迎えたのは、列強の冷遇だった。 招待国リストの12番目に「コレ(Corée)」と明らかにあったが、日本の妨害で会議場の敷居をまたぐことすらできなかった。 会議場の外で連日、乙巳保護条約の不当を訴えると、「平和会議報」は「祭り時の骸骨」というタイトルで李儁一行を報じた。

ハーグに来て19日後、李儁はホテルで死亡する。 彼の死因はいまだにミステリーだ。 病死でないことは確かだと、李儁烈士記念館のソン・チャンジュ館長は説明する。 李儁は亡くなった後も不運だった。 亡くなって53日後に、同行したイ・サンソルが102ドル75セントを出してやっと近隣の市立墓地に埋葬された。 それから56年後の1963年10月に祖国に帰ってきた。

ソン館長は、今回の核安全保障サミットが「第3回万国平和会議」であると感激していた。 皇帝の特使は会議場の外で骨になったが、彼が亡くなって107年後、大韓民国朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は第3回万国平和会議で開幕演説を行った。

烈士の思いがこもったそこで、26日未明(韓国時間)韓日の首脳が顔を合わせた。 その歴史的出会いに感激よりも悲しみが込み上げる。 1世紀が経ったが、日本は変わっていない。 韓国は2つに分かれた。 李儁烈士が今も問うている。 「お前たちは韓国の現実を知っているのか。 そこが平和と思うのか」と。

ハーグにて

http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2014032620018