樺太の日本人墓地調査

樺太サハリン)には、関心がないわけではなく、いずれは訪れてみたいとも思っているのですが、なかなかそういう機会がないままでいます。

サハリンのなかの日本―都市と建築 (ユーラシア・ブックレット)

サハリンのなかの日本―都市と建築 (ユーラシア・ブックレット)

そのような中で読んだこの記事。軍関係者という枠組みを離れた民間人の墓地調査というのは、これまでに行なわれていないのだとすれば、必要かつ重要な取り組みだと思います。

樺太の日本人墓地調査へ…民間人4000人犠牲
2015年08月08日 16時51分

 政府は、第2次世界大戦末期にソ連の侵攻を受け多数の住民が犠牲になった樺太サハリン)で、民間人の戦没者らが埋葬された墓地の調査を行う方針を固めた。

 当時、日本領だった南樺太には約40万人が住んでいたが、戦後はソ連、ロシアが支配し、日本人の墓地は荒廃しているという。

 ソ連は1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して対日参戦。南樺太にも侵攻し、終戦後も攻撃を続け、同25日に占領を完了した。一連の戦いで樺太では民間人約4000人、軍人約1000人の計約5000人が犠牲になったとされる。

 これまで政府は、戦後ソ連に抑留されて死亡した軍人・軍属や、アジアや南洋などの戦闘地域で亡くなった将兵らの遺骨を収集してきた。南樺太でも、ソ連が停戦交渉の軍使を射殺し、執拗しつように日本軍を攻撃した真岡(ホルムスク)付近の激戦地など一部で遺骨の収集活動を実施してきた。だが、厚生労働省や、樺太出身者でつくる「全国樺太連盟」(東京)によると、南樺太で民間人の墓地を中心に調査した記録は残っておらず、今回の調査が初めてとみられるという。

http://www.yomiuri.co.jp/national/20150808-OYT1T50088.html

この調査の背景には、抑留死亡者の名簿公開の進展があるようです。

北朝鮮樺太の抑留死亡者名簿を公表 厚労省
2015/4/30 21:20

 厚生労働省は30日、終戦後に旧ソ連に抑留され、北朝鮮樺太地域などで死亡した約2千人を含む日本人約1万人の名簿を公表した。これまでにシベリアやモンゴルで死亡した約4万人分の名簿は明らかになっていたが、北朝鮮樺太地域での死亡者名簿の公開は初めて。大半はカタカナ表記だが、日本側資料との照合で約2600人を特定した。

 遺族らが肉親などの抑留の実態を知る手がかりになる可能性がある。名簿は同日、厚労省のホームページ(HP)に公開した。

 政府は1991年以降、ロシアなどから4万人分超の抑留死亡者名簿などの提供を受けた。日本語に翻訳したうえで公表してきたが、シベリア抑留者の調査・公開を優先し、北朝鮮などで亡くなった人々の資料は翻訳作業が進んでいなかった。

 今回公表された死亡者氏名は、重複を含め延べ1万723人分。内訳はシベリア・モンゴル地域の8千人余りのほか、北朝鮮興南地域1853人、元山11人、旧満州(現中国東北部)の大連178人、択捉などの樺太地域88人が含まれる。死亡日時や収容所、埋葬場所などが記されている。

 このうち個人を特定できた2660人については、漢字氏名と出身都道府県も掲載した。同省は今後も提供された資料の照合作業を進め、来年度中に終えたい考えだ。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H3E_Q5A430C1CR8000/

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/

ただまあ、樺太をめぐる近代史のことを考えれば、「日本人」という言葉の枠に縛られることなく、より広い視野をもって「日本と樺太との関わり」についての調査が進むことを望みます。

樺太アイヌ、苦難の歴史】母と兄の遺骨、65年ぶりに故郷へ/「樺太に生まれたことは誇り」

 「帰ってきたよ。母さんも兄さんも。65年ぶりだよ」。今月初旬、ロシア極東サハリン州レスノエ(旧樺太・落帆(おちほ))の墓地跡を、関東在住の安部洋子(あべ・ようこ)さん(80)は戦後、日本に渡って亡くなった母と2人の兄の骨片を抱いて訪れた。

 墓地は和人の町から離れ、樺太アイヌ民族が暮らしていた約20戸の村近くの丘に「故人が村を見守ってくれるように」とつくられた。1948年秋、村人が日本に去ってからは訪れる人もなく、木が生い茂る。

 洋子さんは骨片と、日本で生涯を終えた祖母、父らの遺影を埋め、祈った。差別に苦しんだ日本での年月。「(村出身の人々は)みんな自分たちのことを隠している。でも自分たちのところに帰ってきたのだから最高です」とつぶやいた。


生まれ育った村の墓地跡に親族の骨片を納め、祈る安部洋子さん=1日、ロシア極東サハリン州レスノエ(共同)

 ▽村の暮らし

 19世紀までサハリン南部の住民で最も多かったのは樺太アイヌだった。しかし日ロの領土争いのはざまで分断、移住の苦難の歴史をたどる。第2次大戦後にはほとんどが日本に渡り、全国に散らばった。出自を明かしている人は数少ない。

 洋子さんの父は、村のリーダーとして漁場を経営していた。母は日露戦争後、落帆を訪れた言語学者、金田一京助(きんだいち・きょうすけ)に樺太アイヌ語を教えた子どもの一人だったことが誇りだった。伝統的な暮らしをしていた祖父母の家にはイナウ(木幣)と呼ばれる祭具が並び、祭りのためにクマを飼っていた。

 住んでいた家の前にあった大きな木のことを、近所に住むロシア人女性に聞くと覚えていて、写真を見せてくれた。女性は、戦後間もなく、3歳の時に家族と入植したという。

 「こんな空気のいいところに自給自足でみんなと仲良く生きてきたのに…」。洋子さんは15歳まで暮らした村の通りを歩きながらつぶやいた。

 ▽流転

 45年8月、ソ連軍が南サハリンを占領する。ロシア人家族との暮らしを経て、洋子さんらは48年11月、日本に渡った。父は到着1週間後に病死、一家は北海道の引き揚げ者住宅で暮らし始めた。

 口の周りの入れ墨をマスクで隠して見物人を避け、ひっそり息を引き取った祖母。洋子さんは「アイヌ」「引き揚げ者」そして「結核」という差別に苦しみながら、理容師の資格を取得して自立。出自を知り「土人」とののしった夫とは離婚、関東に移って2人の子どもを育て上げた。

 ▽誇り

 洋子さんは2004年に初めて里帰りして以来、自分史をつづっている。「17歳の時から書かなければ、と思っていた。やめろと言う人もいるけれど」。

 今回の訪問では、民族衣装の祖母の写真を収蔵しているサハリン州郷土博物館に招かれ、歓迎と質問攻めにあった。天然ガス開発で発展するサハリンでは、先住民族の歴史を振り返る動きが強まっているという。「展示している道具はどう使ったのか」「日本での差別の実情は」…。

 ロシア人の女性研究者は「彼女は知識の宝庫、そして強い心の持ち主」と話す。数々の質問に答えた洋子さんは語った。「先祖代々、樺太に生まれ育ったことを誇りに思います。そしてこうしてサハリンのみなさんに話ができることを」

 樺太アイヌ民族 サハリン南部で最も勢力が大きかった先住民族樺太アイヌ語犬ぞり、民族楽器のトンコリなど独自の文化を持ち、明治初期には約2400人を数えた。1875年の千島・樺太交換条約に伴い、日本に渡った約800人は対雁(ついしかり)(北海道江別市)に強制移住させられ、半数が感染症で死亡。日露戦争サハリン南部が日本領になり、生き残った人々の多くが帰還した。白瀬矗(しらせ・のぶ)の南極探検に参加したことでも知られる。戦後、ほとんどが日本に移住したとされる。

共同通信=橋田欣典)
2013/10/10 17:12

http://www.47news.jp/47topics/e/246218.php

国境の植民地・樺太 (塙選書)

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移住型植民地樺太の形成

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