己の力不足を思い知るべきとき

(これから書くのは、特定の人物に関することではない。)

教育キャリアの浅い若手の教員の中には、自分のやっている研究に(傍から見れば不思議なほど)やたらと自信を持っている人がいる。

この手の人が大学院生などに研究上の相談を持ちかけられると、一方的に散々まくし立てたあげく、自分の研究的立場から導き出されるとんでもなく高いハードルを、学生相手に示すことがある。

よく聞いてみれば、その手のアドバイスは、「俺(私)がやってきたようにお前もやれ」というメッセージに過ぎなかったりする。しかし、学生の立場からしてみれば、その溢れんばかりの自信と与えられた課題のデカさ*1に圧倒されたあげく、「そんなこと(まで)をしないとやっていけないのか…」と、重い気持ちで研究室を後にすることになる。

重い気持ちになるのも当然である。そういうアドバイスはたいてい、学生のやりたいことから(程度の差はあれ)ズレている。自信満々な教員を相手にする場合ほど、ズレる確率と度合いは高い。相手の話を聞くのもそこそこに、自分の枠組みからしか話をしてないのだから当たり前である。

聞く耳を持っているかどうか。相手の言っていることをまず聞く力があるかどうか。この能力がいかに重要かということを知っているかどうかは、教員の力量を推し量る目安の一つになるだろう。

先の場面に戻れば、考えられる最悪の帰結は、学生が与えられた課題に真面目に取り組もうとしてこなし切れず、パンクしてしまうことである。仮にそうなったとき、件の教員は何を思うか。

「あの学生は、もともと研究に向いてなかったのだ。」

…といった程度の分析しかできないようでは、帰結の最悪度はさらに一段レベルアップする。

潰れる学生がその後も続出するに至って、気づくことになるのであろうか。それでもなお、「ここの学生はレベルが低いから」と嘆いてみせるのであろうか。それとも、その善意と熱心さとによって、自らを正当化してみせるのであろうか。

いつどの段階で、自らの教育者としての力のなさに思い至るのか。できることなら、できるだけ犠牲者の少ない段階で気づいてほしいものである。

*1:それを当の教員が実行できているかどうか。「自分でも理想に過ぎないこと」を他人に押し付けていることもままある。