【昌原の風景】3.15義挙記念塔と馬山臨港線の廃線跡

倉洞の芸術村界隈から少し歩くと、3.15義挙記念碑があります。言うまでもなく、「4.19革命」に先駆けて、馬山で1960年3月15日に始まった不正選挙糾弾デモを記念したものです。



過去に一度訪れたことがあるのですが、その時はどこにあるのかよくわからず、横着してタクシーに乗りました。今回は、Wi-Fiを使ってNAVER地図を参照しながら、徒歩で行ってみました。

WBC決勝戦

烈士の後裔たち, 50年ぶりに礼を尽くす
登録 : 2010.04.12 11:18 原文入力 : 2010-04-11 午後10:20:25 (1537字)

4・19‘導火線’キム・ジュヨル烈士 葬礼式 昨日 馬山で開かれる
追慕事業会 主導, 政府支援なしで後援支援金・寄付金だけで

シン・ドンミョン記者,キム・テヒョン記者


←4・19革命の導火線となったキム・ジュヨル烈士が亡くなり50年ぶりの11日、慶南,馬山市,西城洞の3・15義挙記念塔前で彼の霊魂を賛える汎国民葬の路祭が開かれている。この日、汎国民葬は1960年4月11日に警察が撃った催涙弾が目に打ち込まれ亡くなったキム烈士の遺体が浮き上がった馬山中央埠頭と当時の示威現場一帯で出棺と死体運柩演出,招魂祭と路祭などで進行された。馬山/キム・テヒョン記者

大韓民国の初の民主主義革命の導火線となったキム・ジュヨル(1943〜1960)烈士の葬儀が50年ぶりの11日午後1時、当時彼の遺体が発見された慶南,馬山中央埠頭で‘汎国民葬’として行われた。この日は50年前、馬山中央埠頭の海で彼が遺体として発見された日だ。

キム・ヨンマン常任共同葬儀準備委員長は「当時、警察が烈士の遺体を奪い故郷の全北,南原に強制的に埋めたので葬式も行うことができなかった」とし「たとえ半世紀が過ぎたとはいえ、礼を尽くして烈士の葬儀をきちんと行うことが生き残った者の義務」とこの日の葬儀の意味を明らかにした。この日の汎国民葬は追悼事業会と釜山馬山抗争記念事業会など40余団体が準備委員会を設け推進してきた。当初、準備委は3・15義挙が国家記念日になったことを契機に慶南道や馬山市などの支援を期待した。しかし法的根拠がないという理由でこれら地方政府が支援しないので、一日酒店を開き市民の寄付を集め費用を準備した。

この日の葬儀には烈士の姉キム・ヨンジャ(74)・キョンジャ(69)氏など、遺族10人余りをはじめ、南原地域追悼事業会員100人余りと市民など1000人余りが参加した。葬式は出棺と運柩,招魂祭の順で進行された。ハム・セウン民主化運動記念事業会理事長は、弔辞で「50年前、まさにこの海で無残な遺体として浮き上がったキム・ジュヨル青年は、民主主義の先駆者として私たちの前に近づいた」として「彼の犠牲を通じて実現された4・19革命で韓国民主主義の花がぱっと開いた」と評価した。烈士の姉キム・ギョンジャ氏は「50年間、こういう行事に招待され参加することは初めて」として「弟のために葬儀を用意した馬山市民に感謝申し上げる」と話し涙を流した。

葬儀後、参加者たちは烈士の遺影と花葬輿を先頭に3・15義挙記念塔と当時 彼の遺体がしばらく安置された馬山道立病院,示威現場の南城洞・北馬山派出所,倉洞,馬山商高(現 龍馬高)で路祭を行った。路祭中にはキム烈士が当時入学を控えていた龍馬高の後輩たちが3・15義挙と4・19革命犠牲者の写真と追慕の文が入れられた挽章200ヶを持ち共に行進した。路祭が終わった後、キム烈士の葬輿は烈士の墓地がある全北,南原に移された。

キム・ジュヨル烈士は1960年3月15日、正・副大統領選挙日に自由党政権の不正行為に抗議し馬山市民らが行った示威に参加し失踪した後、27日後の4月11日に馬山近海で遺体となって発見された。当時、彼の右目には催涙弾が打ち込まれていた。これを契機に示威が全国に広がり4・19革命が起きた。

シン・ドンミョン記者

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/415564.html 訳J.S

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/4797.html

その当時からすると、公園脇の通路に書かれている金朱烈のペンキ絵もかなりかすれてきていました。

ちなみに、南原にある金朱烈のお墓については、こちらをどうぞ。

南原の金朱烈


ところで、この記念塔の前には、鉄橋が架かっているのですが。

ああ、違いました。こちらです。


この鉄橋、路線としては「馬山港第1埠頭線」とも呼ばれる馬山臨港線のものなのですが、これ自体はすでに廃線となっています。

마산항제1부두선 - 위키백과

ただ、この鉄橋のある風景は、馬山の中心部の風景として親しまれてきたものであると同時に、3.15義挙や1979年の釜馬抗争の舞台としてもよく知られているようです。

したがって、鉄道路線としては無用の存在なのですが、それを単純に撤去するというのではなく、姿はそのままに、生かせるところはどうにか有効利用しようという流れになっています。それも、産業的に、というのではなく、公園か、もしくはグリーンベルトのような形で、ということみたいです。

80년 역사, 임항선 철길 옆 삶 - 오마이뉴스


そんなわけで、鉄橋に登ってみました。登り口は、記念塔からは反対側にあります。

そんなにたくさんではありませんが、歩いている人も見かけます。かつての線路は、今のところどうやら、道として普通に使われているようです。

で、鉄橋のほうを向いてみると。



鉄橋の脇に遊歩道橋が新たに作られているのですが、鉄橋の中の軌道は、枕木などと一緒にそのまま残っています。

しかも、特に立ち入り禁止になっているわけでもなく、レールや枕木を踏んで渡ることもできます。ただ、その下にはそれなりに空間が広がっています*1ので、必ずしも安全とは言えません。「歩くのでしたら自己責任でご自由に」といった感じになります。


この鉄橋の前後にも線路と遊歩道がずっと伸びているのですが、その全貌を把握するには、雪と氷で埋もれたこの日は適切ではありませんでしたし、私にはその根性もありません。

そのような私の不運と根性なしとを補足するためには、下記のブログなどを参照されることをお勧めします。

임항선 - 마산을 걷다

기차 대신에 사람들이 걸어다니는 철길인 마산임항선(馬山臨港線)(上) - 세계 철도 여행기

기차 대신에 사람들이 걸어다니는 철길인 마산임항선(馬山臨港線)(下) - 세계 철도 여행기


*1:鉄橋下の道路まで落ちてしまうことはさすがにありませんが…。