昨日のこちらのさらに続報となります。
関連記事はけっこうありますね。完成までの途中経過や、孝昌公園との関係性について、何度か書いています。
南山公園から孝昌公園まで歩く
安重根記念館の現在
安重根記念館の新築のための募金運動
安重根記念館、新装へ
けだるさとともに
何でもかんでも聖域化せんでも
記事入力 : 2010/10/26 11:27:58
安重根義士記念館の改築完成、26日開館(上)伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン、1879−1910)の功績をたたえる「安重根義士記念館」がこのほど改築され、26日に開館式が行われる。
同記念館は安重根による伊藤博文暗殺から101周年の記念日に、ソウル市南区南大門路5街の南山図書館の上に開館する。昨年3月26日に改築工事を開始し、1年7カ月をかけこのほど完成した。敷地面積は5772.7平方メートルで、建物は地下2階、地上2階。工事費用には国庫支援146億ウォン(約10億6000万円)と国民による募金35億ウォン(約2億5000万円)が充てられた。
26日の開館式を控えた安重根義士記念館の内部。伊藤博文暗殺から101周年を記念し、地下2階、地上2階の建物が完成した。/写真=鄭敬烈(チョン・ギョンヨル)記者記念館改築に向け、朝鮮日報社は昨年から安重根義士崇慕(尊び慕うこと)】会などと共同で、「安重根義士逝去100周年記念遺墨展」「大韓国民・安重根の人生と夢国際学術会議」、ミュージカル「英雄」、安重根ウェブサイト開設などの記念事業を共同で推進または後援してきた。
安重根義士記念館は、旧記念館を撤去し、同じ場所に建設された。従来の展示物は旧記念館を設立・管理してきた安重根義士崇慕会に引き渡された。同記念館は、2004年8月に大統領府(青瓦台)での昼食会で、光復会(独立運動家の家族団体)の会長が記念館新築を提案し、当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が建設を指示した。安重根義士記念館建設委員会のチョン・セユン事務処長(63)は「1970年に開館した旧記念館は狭く、時代遅れのもので、記念館とは呼べなかった。旧記念館には展示物もほとんどなく、行事を行う際には記念館に近いソウル教育情報院の講堂を借りるほどだった」と振り返った。
2005年12月には、安重根義士記念館建設委員会が発足し、本格的な準備作業に入った。昨年3月に起工式を行い、今年1月には旧記念館の撤去を開始。7月に新記念館の建物使用許可を取得し、26日の竣工(しゅんこう)・開館式にこぎ着けた。
開館前日に公開された安重根義士記念館。内部には九つの展示室、特別展示室、体験展示室などがあり、安重根の出生と成長から独立運動までさまざまな記録が展示されている。/写真=鄭敬烈(チョン・ギョンヨル)記者
記事入力 : 2010/10/26 11:28:34
安重根義士記念館の改築完成、26日開館(下)新たに建設された記念館は、洗練されたデザインを持つ現代的な建物として生まれ変わった。正面から見て左側には、安重根が右手に太極旗(韓国国旗)を握っている立像が建てられた。記念館の右側上部には「安重根」の文字が見える。建物右側には入り口へと下りていく「瞑想(めいそう)の道」がある。道の右側の壁面には「独立」「忍耐」など、安重根が獄中で残した遺墨が大理石に刻まれている。
地下1階の入り口を過ぎると、右側には安重根の銅製座像がある。両手を重ね、白いシルクの服をまとった座像は白塗りだ。座像の後ろには、安重根が指を切り落とし、血で書いたとされる太極旗を大きく再現して展示した。太極旗の四隅には「大韓独立」と書かれている。
地下1階の展示室には、安重根の遺言、法廷陳述の内容、出生と成長過程、一族の独立運動の軌跡などが展示されている。地上1階にはカトリック教徒だった安重根の人生と韓国での活動、義兵活動のほか、1909年3月に左手薬指を切断し、独立を誓った「同義断指会」に関する内容となっている。地上2階には、ハルビンでの伊藤博文暗殺現場・法廷の模型、安重根が獄中で書いたとされる『安応七(アン・ウンチル)歴史』(安応七は安重根の本名)・『東洋平和論』が展示された。このほか、2階には特別展示室、体験展示室、総合映像室も設けられた。展示室の見学を終え、地下1階に下りると、安重根の座像の裏に追慕室があり、入り口の向かい側の壁には銅版に記念館建設のために募金した国民の名前が刻まれている。
安重根義士記念館建設委員会のパク・ユチョル委員長(72)は「新記念館の建設を契機として、安義士の偉大な業績をさらにたたえることができ、感慨も新ただ」と語った。
キム・ガンハン記者
記事入力 : 2010/10/26 11:43:53
【萬物相】南山の安重根聖地日本による支配が続いた36年間、朝鮮総督府はソウル中心部にある南山を、自分たちの神が住む巣窟(そうくつ)に仕立て上げた。中でも日本を造った天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭った朝鮮神宮は、彼らが朝鮮の地に建てた1000以上の神社の中でも総本山のような場所となった。電車が南大門周辺を通る際には、車掌は電車を止め、乗客に朝鮮神宮に向けて一斉に礼をさせた。日本の銃剣に脅されて朝鮮神宮を参拝した数は、1年に200万人から250万人に上った。
かつてこの朝鮮神宮があった場所に、安重根(アン・ジュングン)義士崇慕(尊び慕うこと)会によって安重根記念館が建設されたのは1970年10月26日だった。伊藤博文を射殺し、日本による侵略の不当さを世界に訴えた安重根義士を祭る場所として、内鮮一体強要の象徴だった朝鮮神宮の地ほど適当な場所もなかった。南山オリニ(子供)会館の視察に訪れていた当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は、安義士のおいであるアン・チュンセン氏から事情を聞き、支援するよう指示したことで、政府から当時の額で1000万ウォン(現在のレートで約72万円、以下同じ)、さらに各界から6000万ウォン(約434万円)が贈られた。
そのころ小学生だった世代であれば、遠足や修学旅行などでオリニ会館と安重根記念館を見学した記憶があるはずだ。太極旗を手にした安義士の銅像や、碑に刻まれた「見利思義 見危授命(利益を目にすれば義を考え、国が危うい時には命をささげる)」などの文字を見ながら、誰もが国のために命をささげるとはどういうことかを考えたはずだ。しかし当時、記念館は手狭で、また1回に50人以上入るのも大変だったため、遺品などの展示も難しかった。
安義士がハルビンで義挙を起こしてから101年目となる今日、南山にある安重根記念館がリニューアルしてオープンする。場所は変わらないが、以前に比べると広さは6倍となり、ハイテク設備や展示技法も新たに整備して、安義士の「為国献身」の生涯を思い起こすには非常に素晴らしい施設として生まれ変わった。オープン記念式のもう一方の主人公は、政府による支援とは別に34億7600万ウォン(約2億5200万円)もの寄付を集めた1万1055人の国民だ。独立門や独立記念館建立当時のように、国の独立と自存の意識を高めることに対し、自ら寄付を提供してきた伝統が今回も生かされた。
「国に帰ったら同胞たちに、各自が国民としての義務を果たし、心を一つにして力を合わせて功を立て、業を実現するよう伝えてほしい。大韓独立の声が天国にまで聞こえてくれば、自分は踊りながら万歳を叫ぶだろう」。新しく整備された安義士をたたえる聖地に立ってみると、安義士が旅順刑務所での殉国直前、二人の弟に伝えた最後の言葉が思い起こされる。これは今でもつい最近の話のように感じられる。
金泰翼(キム・テイク)論説委員
記事入力 : 2010/10/26 11:22:19
難航する安重根の遺体探しおよそ100年前に伊藤博文・初代韓国統監を射殺し、刑場の露と消えた安重根(アン・ジュングン)の遺体はどこにあるのか。韓国政府は今年4月、「安重根義士遺体発掘推進団」を発足させ、遺体がある場所を突き止めようと懸命に努力してきたが、まだはっきりした成果は出ていない。安重根の遺体を探そうという努力は、光復(日本の植民地支配からの解放)直後から始まった。金九(キム・グ)は、義士・烈士の遺体を葬る事業に着手し、1946年7月に李奉昌(イ・ボンチャン)、尹奉吉(ユン・ボンギル)、白貞基(ペク・ジョンギ)の遺体を孝昌園に埋葬し、その横に安重根の仮の墓を作った。翌年4月、金九は南北交渉会議に参加するため平壌を訪れ、その際に安重根の墓の発掘を提案したが、金日成(キム・イルソン)主席はこれを拒絶した。
2000年代に入ると、南北共同による発掘が進められた。南北は05年6月の第15回南北長官級会談で、安重根の遺体発掘を共同で進めることで合意し、その後4回にわたり実務接触を行ったが、実際に共同発掘を行うまでには至らなかった。08年3月から4月にかけて、韓中の発掘団は、旅順監獄北側の埋葬推定地で29日間にわたり発掘調査活動を行ったが、遺体の存在を確認することはできなかった。
推進団は今後、第1段階として、関連する証拠資料の収集を行い、その結果を確認した上で、第2段階の埋葬地発掘に着手する計画だ。
張一鉉(チャン・イルヒョン)記者