KANO関連記事いろいろ:産経新聞・デイリースポーツその他

これ、筆者名が書いてありませんけど、黒田さんですやんね?

「韓国ではこれはできないだろうなあ…」という感慨には、私も同意する部分があります。けれど、「KANO」を「日台美談」モノとする括りには、共感できない部分のほうが多いですねえ。1931年と1944年を重ねるこの作品は、根本的に「苦い」映画であると思うのですよ。

いちおう作品としては文中に挙がっていますが、「セデック・バレ」との関連性を見ずに「美談」という言葉でくくって見出しに掲げるというのは、イマイチだなあ、という感じがします。

ちなみに、日の丸だけでなく、朝日新聞の社旗も登場しますよ。朝日新聞は、この映画の提供もしてます。

2015.2.22 15:38更新
【から(韓)くに便り】韓国でもあったはずの“美談”どこへ…台湾映画「KANO」の後味

 先ごろ日本に一時帰国した際、台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』を見た。日本統治時代を背景にした映画で昨年、台湾で大ヒットしたということで関心があった。同じ魏徳聖監督(今回はプロデューサー)の作品で、やはり大ヒットした“日本モノ”の『海角七号 君想う、国境の南』も数年前に見ているが、いずれも日本統治時代の過去を素材にした“日台美談”モノである。

 今回の作品は「民族を超えた汗と涙の甲子園物語」だから終始、目がウルウルの心地よい感動ドラマだったが、見た後は「韓国ではこれはできないだろうなあ…」というどこか苦い味がまたしても残った。「同じく日本統治を受けた歴史を持ちながら、韓国と台湾はなぜこんなに違うのだろう?」とあらためて感じさせられたのだ。

 『KANO』は戦前の台湾の「嘉義農林学校」のことで、1931(昭和6)年の夏の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)で彗星(すいせい)のように登場し、決勝戦まで進出したことで知られる。

 嘉義農林はその後、計4回、甲子園に出場した野球の名門校で、昭和16年生まれの戦後派の筆者も野球好きだったせいか、その名声は記憶していた。余談だが今回、映画を見て、日本のプロ野球で戦前から戦後にかけて活躍した呉昌征(1916〜87年)も「あの時の嘉義農林の甲子園出場組だったのか」と知り感慨深かった。

 ちなみに呉昌征ジャイアンツやタイガースで活躍、戦後は1950(昭和25)年の史上初の日本シリーズで「毎日オリオンズ」の優勝に貢献している。首位打者2回、盗塁王1回などの記録を持ち95年、野球殿堂入りしている。

 映画は、日本人や台湾人の混成で弱体だった嘉義農林が新しい日本人監督の下で鍛えられ、奇跡的に甲子園出場を果たす話だ。これに、台湾農業開発の父として台湾の教科書にも載っているという日本人技師・八田與一の話を重ね、日台協力で地域ぐるみの成功に歓喜する姿が描かれる。

 映画のせりふはほとんどが日本語だし、いたるところで日の丸が登場する。韓国で日本モノというとすぐ“抗日民族主義者”が登場し抵抗する物語がほとんどだが、そんな余計(?)なものは登場しない。台湾ではそういう映画を40代半ばの監督が何の遠慮もなく制作し、それが大ヒットするのだ。

 しかし、ちなみに魏徳聖監督は、日本統治時代に台湾先住民が日本官憲の横暴に抗議して立ち上がった「霧社事件」も先に映画化している。

 映画『KANO』のラストは、甲子園で予想を覆し嘉義農林に敗れた札幌商業のエースが、後に出征の途中、嘉義農林の“奇跡”を生んだ現場を見たいと、林の中のホコリだらけのグラウンドを訪れるシーンだ。

 野球というスポーツが民族や政治を超えた“美談”の背景にある。韓国にも日本統治時代にはこの種の美談は無数にあったはずだが、韓国は台湾と違って残念ながらいまなおそれを否定、無視するのに必死なのだ。

(ソウル駐在客員論説委員

http://www.sankei.com/column/news/150222/clm1502220010-n1.html

他方、デイリースポーツには、「KANOのその後」まで追いかけた記事が出ています。

嘉義農林がまいた種…郭源治氏との縁
2015年2月24日


呉明捷投手彫像除幕式=台湾・嘉義市中央噴水池、14年2月22日

 映画「KANO〜1931海の向こうの甲子園〜」が昨年は台湾、今年は日本でヒットした。KANOとは台湾の嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の愛称で、映画では日本統治下にあった時代、初出場で準優勝を果たした快進撃が描かれている。当時の監督は、松山商業出身の近藤兵太郎。“外地”の学校を率い、民族の垣根を越えた近藤氏の足跡、そして嘉義農林の歴史が今に伝えるものを、書く。

 嘉義農林は南部からの初出場であると同時に、それまでの台湾代表は日本人によるチームだったが、嘉義農林漢民族、日本人、そして高砂族(先住民)の混成チームだった。

 躍進の原動力となったのはエースの呉明捷(漢民族)。ダイナミックなフォームから繰り出す速球にカーブとシンカーを巧みに操る制球力もあった。2回戦の神奈川商工戦では1安打完封。これは台湾代表初の快挙だった。

 映画「KANO」では小市慢太郎が演じる新聞記者が喝采を送るシーンがあるが、その元になっているのが作家の菊池寛が大会終了後に東京朝日新聞に寄せた「甲子園印象記」だ。『嘉義農林が神奈川商工と戦った時から嘉義びいきになった』。高校野球がファンをひきつけるのは「郷土愛」と並んで「判官びいき」だが、その第1号と言ってもいいのがこの大会での嘉義農林だろう。

 のちに「麒麟児(きりんじ)」と呼ばれる明捷が生まれたのは、12年2月17日。北部の苗栗という街で、父は裁判所の書記官を務め、広大な土地を所有する地主だった。苗栗と嘉義は、当時は列車で4時間。農業を学びたくて進学した。

 最初はテニス部。近藤に見いだされ、スパルタ練習で明捷の才能は開花した。甲子園では打者としても4割1分2厘の大活躍。腸チフスのため、1年遅れで進んだ早大では野手に専念し、通算7本塁打を放った。これはのちに長嶋茂雄に破られるまで、東京六大学の最多タイ記録だった。しかし、早大で野球とは決別した。

 「プロからも誘いはありましたが、断ったみたいです。息子としてはプロに行ってもそれなりの記録は残したんじゃないかと思いますが、アマチュアリズムとでもいうのでしょうか。『お金をもらって野球を見せようとは思わなかった』と話していました」

 こう話したのは次男の堀川盛邦氏(59)だ。明捷は71歳で亡くなるまで台湾籍のままだったが、4人の子どもたちには日本国籍を選ばせ、妻の姓を名乗らせた。

 嘉義農林がまいた種は、思わぬところでも花を咲かせていた。中日で通算106勝116セーブを挙げた郭源治氏(58)だ。

 「僕たち先住民には娯楽がない。野球が遊びだった。でも、野球の基礎を教わったのは嘉農の人だった。嘉農がなければ今の僕はないんです」

 源治に野球の手ほどきをしたのは、郭光也、子光親子。父・光也は36年に嘉義農林が最後の甲子園に出たときのメンバーだった。その源治が今度は台湾で子どもたちに野球を教える…。84年前にまかれた野球の種は、今も台湾で育っている。

http://www.daily.co.jp/baseball/2015/02/24/0007765613.shtml

このデイリースポーツの記事だけでなく、「KANO」に触発されて、作品をさらに深く読みこむような記事も、いくつか目につきました。いずれも読み甲斐のあるものです。

『KANO』に見る、強いチームの作り方。ヒューマニズムではなく、監督として。[REVERSE ANGLE] - Number Web

おきらく台湾研究所 - 植民地台湾という観点から『KANO』を考えてみた その1

おきらく台湾研究所 - 植民地台湾という観点から『KANO』を考えてみた その2

また、「KANO」の台湾公開時に書かれた昨年4月のバックナンバー記事で、無料会員登録をしないと全文は読めませんけど、こちらの記事もたいへん参考になります。

映画「KANO」と台湾アイデンティティ - 日経ビジネスオンライン