「済州4.3」をめぐる陣営論理の一例:「朝鮮日報は何を言っているの?」

もともとは4月9日付のコラムなんですが、見落としていました。日本語版で出て初めてこの記事の存在を知った次第です。

まあ、一言で言えば、この記者が言っているのは、紛れもない「いちゃもん」なわけです。

だいたい、ここで「生き証人」が語っているような「4.3事件の真相」、当事者はかつて「知っていても話せない」状況だったわけでしょう。当時、そのような「真相」を話せなかったのは、何故ですか?

その「真相」が掘り返されていった経緯を、朝鮮日報の文化部次長ともあろう人が知らないわけがありませんね。

朝鮮解放から四・三前夜まで (済州島四・三事件)

朝鮮解放から四・三前夜まで (済州島四・三事件)

済州島四・三事件 記憶と真実―資料集‐済州島四・三事件60件を越えて

済州島四・三事件 記憶と真実―資料集‐済州島四・三事件60件を越えて

で、そこまで済州の人々を苦しめ、命を奪い、その後も長い沈黙を強いたこの事件は、何故起きたのですか?

いま問題となっているのは、そこでしょう。

そこを自らに問うことなく、相手を非難するばかりだから、この記事は筋違いを起こしてしまって、「いちゃもん」レベルにとどまってるんですよ。

事件の現場で、記事に書かれているような悲劇が数えきれないほど起きたことは、みんなわかっています。軍警・右翼団体による犠牲者が78%にのぼる一方、住民側の武装蜂起勢力による犠牲者も13%を占めるという、4.3事件の犠牲者の犠牲をどう「理解」するか。

済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語

済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語

事件に対する「理解」が、事実の認定ではなく(そこを争っているのではありませんね?)、政治に関わるものであるとすれば、それを引き受けるべきは、まず政治家、そして、新聞記者も含めて「権力や政治理念に毒された」者たちでしょう。「歴史学者」一般にいちゃもんをつける前に、自らの「政治理念」を顧みてはいかがですか?

故・廬武鉉大統領に対抗して、政治的にどんな風に「済州道民の受難の歴史」を「理解」するおつもりなんです?話は、その問いを「直視」してからです*1

記事入力 : 2015/04/26 06:06
【コラム】「韓国の歴史学者は何をしているの?」
済州島4・3事件の生き証人、玄吉彦さんが語った「あの日」の出来事

 済州道出身の小説家で漢陽大学元教授(国文学)の玄吉彦(ヒョン・ギルオン)さんは、8歳のときに済州島4・3事件(島民の蜂起が引き金となり、軍や警察などが島民を虐殺した事件)を経験した。済州市翰林面の山あいの村に住んでいた玄さんの家族にとって、軍と警察の討伐隊は「冥土の使い」だった。集落に入ってきた討伐隊は怖がって逃げまどう住民たちに有無を言わせず発砲し、家々に火を付けた。南朝鮮労働党(南労党)が引き起こした武装闘争に村人たちが同調していると疑われたためだ。祭祀(さいし)のため祖父と一緒に親戚の家に向かう途中だった玄さんも検問に引っ掛かったが、からくも死を免れた。討伐隊員の一人が玄さんの祖父を知っていたため、難を逃れたのだった。祖父の3番目のおじが4・3事件の直前に警察官になっていたのが功を奏したのだ。だが、警察官の家族であっても、必ずしも安全を保障されたわけではなかった。

 それからしばらくたって、玄さんの家族は南元面(現・西帰浦市南元邑)に避難した。ところが今度は祖母が、集落を襲った暴徒らの犠牲になった。塀を乗り越えて逃げようとした祖母に、2人ほどの若者が駆け寄り、やりで下半身をめった刺しにした。南元面では400戸の家屋が燃やされ、約60人が殺害された。祖母もこのときの後遺症により、約2年後に亡くなった。襲撃からしばらくたって、警察の支署が人々を集めた。逮捕した暴徒らを遺族・家族の前に引きずり出したのだ。暴徒らは興奮した遺族たちから棒でやみくもに殴られ死んでいった。この場にはまだ幼かった玄さんもいた。

 翌日早朝、玄さんの祖父は支署に出向いた。親戚の遺体を引き取りに行こうとしたという。前日に処刑された人たちの遺体が集められている場所で、祖父はおじの一人の遺体を発見した。家族はその日、集落を襲撃した暴徒の中におじがいたのではないかと心配していた。

玄さんはこのような家族史を淡々と語った。済州島の多くの人々と同程度の苦痛を受けたのであって、特にひどい話でもないという。玄さんが身をもって経験した4・3事件の犠牲者は、生き残るために逃げ回り、結局命を落とした人たちがほとんどだった。ところが、盧武鉉ノ・ムヒョン)政権下の2003年に発表された「済州4・3事件真相報告書」は、同事件を「建国当初の(38度線以南の)単独選挙による(大韓民国)政府樹立という恥ずかしい歴史に抵抗した事件」と定義した。済州道民の受難の歴史が、大韓民国政府の樹立に立ち向かった正義の事件ということにされてしまったのだ。

 玄さんは2013年から、自ら発行人を務める季刊誌「本質と現状」で、盧武鉉政権の「済州4・3事件真相報告書」の問題を指摘した。同報告書が「政治的な見解に従って真実を歪曲(わいきょく)している」と考えたからだ。4・3事件関連の団体などは「事件をこき下ろしている」として、口に出すのもはばかられるような侮辱的な表現で玄さんを罵倒した。玄さんはもちろん、事件の真実を明らかにする活動をやめるつもりはない。だが、歴史学者たちは一体何をしているのか、理解できないという。

 玄さんはこんな話もした。暴徒が集落を襲撃した日、父方のおば2人も小屋に隠れていたが、結局暴徒に見つかった。その人は「ここは何もないから行こう」と言って立ち去った。おばたちは無事だった。祖父はおばたちに「誰だったのか」と聞いた。おばの一人は「死ぬまで言えない」と言い張った。30年後、このおばは玄さんにその人の名前を明かした。すでにこの世を去った村の若者だった。「命を救ってくれた恩人なのに、ありがとうと言えなかった。知らないふりをするのが得策だと思って…」

 平凡な女性も知っている4・3事件の真実を、権力や政治理念に毒された歴史学者たちだけが直視できないのではないだろうか。

金基哲(キム・ギチョル)文化部次長

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/04/25/2015042500375.html

[동서남북]"그런데, 역사학자들은 뭐하고 있죠?"
김기철 문화부 차장 입력 : 2015.04.09 03:00


김기철 문화부 차장

제주 출신 소설가 현길언 전 한양대 교수(국문학)는 아홉 살 때 4·3사건을 겪었다. 제주 남원읍 수망리 중산간 마을에 살던 그의 가족에게 군경(軍警) 토벌대는 저승사자였다. 동네에 들어온 토벌대는 겁에 질려 달아나는 주민들에게 다짜고짜 총질했고, 집을 불태웠다. 남로당이 일으킨 무장폭동 동조 세력으로 의심했기 때문이다. 할아버지와 친척집 제사에 가던 소년 현길언도 검문에 걸려 죽을 뻔했다. 토벌대원 하나가 다행히 할아버지를 알아봐 화를 면했다. 그는 셋째 삼촌이 4·3 직전 경찰에 투신한 경찰 가족이었다. 하지만 경찰 가족의 안위도 보장받지 못할 만큼 험한 세상이었다.

얼마 후 가족들은 남원면 해안 마을로 피란갔다. 이번엔 마을을 습격한 폭도들에게 할머니가 변을 당했다. 담을 넘어 피하려던 할머니를 청년 두엇이 달려들어 철창으로 아랫도리를 마구 찌른 것이다. 남원 마을 400호가 불타고, 60여명이 죽었다. 할머니도 후유증 때문에 두어 해 뒤 세상을 떠났다. 습격 얼마 뒤 지서(支署)에서 사람들을 불러모았다. 경찰이 붙잡은 폭도들을 데려와 유가족들에게 한(恨)을 풀게 한 것이다. 폭도들은 분노에 찬 유가족들의 몽둥이세례를 받으며 죽어갔다. 소년 현길언도 그 자리에 있었다.

다음 날 새벽, 할아버지는 지서에 찾아갔다. 아는 친척의 시신을 거둬주려 한다고 했다. 전날 처형된 시신들이 엉켜 있는 곳에서 할아버지는 막내 삼촌의 시신을 발견했다. 식구들은 그날 마을을 습격한 폭도 무리 속에 막내 삼촌이 끼어 있지는 않았을까 걱정했었다.

현 교수는 이런 가족사를 담담하게 들려줬다. 대부분 제주 사람들과 비슷한 분량의 고통일 뿐, 특별한 얘기는 아니라고 했다. 그가 몸으로 살아낸 4·3사건은 살아남기 위해 도망 다니다 목숨을 잃은 희생자들이 대부분이었다. 하지만 2003년 노무현 정부 당시 발표한 '제주 4·3사건 진상보고서'는 '건국 초기 단선(單選) 정부 수립이라는 부끄러운 역사에 저항한 사건'으로 4·3을 규정했다. 제주도민의 수난사가 대한민국 정부 수립에 맞선 정의로운 사건으로 둔갑한 셈이다.

현 교수는 재작년부터 자신이 발행인으로 있는 계간지 '본질과 현상'에서 노무현 정부의 '4·3사건 보고서'의 문제를 지적해왔다. '4·3 보고서'가 정치적 입맛에 따라 진실을 왜곡했다는 생각 때문이었다. 제주 4·3 단체 등에선 "4·3사건을 폄훼한다"며 입에 담을 수 없는 모욕적인 언어로 그를 매도했다. 현 교수는 물론 4·3의 진실 밝히기를 그만둘 생각이 없다. 하지만 역사학자들은 대체 뭐하고 있는지 이해할 수 없다고 했다.

그는 이런 얘기도 들려줬다. 폭도가 마을을 습격한 날 고모 둘도 외양간에 숨었다가 한 폭도와 맞닥뜨렸다. 그 청년은 "여기 아무도 없으니 어서 가자"며 나가버렸다. 고모들은 무사했다. 할아버지가 누구였는지 물었다. 둘째 고모는 "눈에 흙이 들어갈 때까지 말할 수 없다"고 버텼다. 30년 후 고모는 현 교수에게 그 사람 이름을 말해줬다. 이미 세상을 뜬 같은 마을 청년이었다. "생명을 구해준 은인인데도 고맙다는 말을 할 수 없었다. 모른 척하는 것이 상책(上策)이라고 생각되어서…."

평범한 여자도 아는 4·3사건의 진실을 권력과 이념에 취한 역사학자들만 제대로 못 보고 있는 게 아닐까.

http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2015/04/08/2015040804874.html

ったく、そんな調子でオセロで勝ち負けを決めるようにことが片付くなら、4.3事件をめぐってこんなに揉めやしませんて。

*1:そうすると、今度は「攻守交代」が起きて、こっち側が非難の嵐の矢面に立つことになるんですよね。だからそれを避けているんでしょうけど、小ズルいだけで誠実なやり方ではありません。ま、どっちにしても既視感のある構図ですよ。そこの泥沼を抜け出す道には通じていません。